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公式戦史から歩兵第27連隊の動きを読む(2) ~12月2日から4日

(出典: 『明治卅七八年日露戦史. 第6巻 9 旅順要塞ノ攻略』 コマ番号293~298) 1日の攻撃の結果、死傷あまりに多く、また第1師団と第7師団の指揮系統や配置が入り乱れてしまったので、2日から4日は人員配置の整頓と作戦の立て直しが行われたようです。 ただし 諸部隊の混淆はなただしきが故にまずこれを整頓せんとし、第1第7師団の攻撃地区を区分し第7師団をもって依然203の攻撃に任じ、第1師団をして極力これを援助せしめ、各師団の諸部隊をして全然その固有の所属に復帰せしめんとせば多大の時日を要し時機に適せざるがゆえにおおむね現在の配置に従いしばらくその地区の指揮官に隷属せしむることとし 本来の所属に戻すのはあまりに大変なので、おおむね今いるところの指揮官に従うことになりました。 休戦は第三軍全体ではなくて、各師団の各戦線で個別に協定されたのですね。 協定が成立しなかったところもあるし、 第9師団方面は状況変化なくこの日盤龍山東保塁前攻路頸付近における彼我中間地区の死体収容のため敵と一局部の休戦を協定し、ともに死体を収容し午後5時これを終われり。同時二龍山保塁方面にありても敵兵死体の収容を促せしも我が作業隊すでに外壕内に坑進作業を開始遷都し際なりしがゆえについに応ぜず。 部分的な戦闘はこの間もありました。 尾形のあれ、休戦協定違反だったらやばくない?って心配してたんですけど大丈夫そう。 3日、203西南部山頂一角の我が陣地は午前5時30分ころ白玉山西方の敵艦より射撃を受け、夜来築設せる観測所ならびに攻路の大部破壊し、7時過ぎにいたり敵兵5,60山頂の掩蓋下より逆襲しきたり当時該陣地の守備に任ぜし歩兵第25連隊第1中隊および第3中隊の一小隊まずこれに当たり、ついで第3攻撃陣地にありし同連隊第2中隊その左右に増加し約20分にしてこれを撃退せり。  4日の第七師団  4日、第7師団方面一般の状況、前日と異なることなくこの間時々第一線諸隊を交替し工兵並びに予備隊の歩兵は交互に攻撃作業に任じ、あるいは材料の整備に従事す。しかして諸材料の集積、配布、部隊の整頓等おおいに進捗し203西南部山頂一角の我が拠点ようやく堅固となれるも概して第一線の工事は地質硬くかつ敵の防碍に遭いて速やかに進捗せず。とくに観測所はこの日敵火の破壊す...

『旭川第七師団』読書メモ

示村 貞夫著。郷土史家による私家版ということになるか、大変な労作。明治初期から第二次大戦後の解体までを扱ったなかで、金カムに関係ありそうなところのメモ。 第2章 屯田兵 明治23年ごろからは族籍を問わなくなる 当初は18~35歳男子、明治18年の条例で17~30歳、23年に17~25歳に変更 明治18年以降は独身者不可。家族はともに開墾稼働できることが条件の一つ 40歳が限度で、それ以後は子孫が世襲する規定 明治23年・27年・34年の改正を経て、現役5年・後備役15年となる 日清戦争のとき、臨時第七師団を編成(東京で待機中に終戦) その後、屯田兵は第七師団に隷属 明治33年からは募集中止、37年に廃止 約30年間で 37兵村、7337戸、39901人。歩兵6175人、騎・砲・工兵あわせて6588人 屯田兵には2万坪の土地のほか、家具什器・農具・扶助米・塩菜料が給与され、地租も免除された。 兵屋は17坪5合、杣葺平屋、間口5間・奥行3間半。半分が土間、あとは6畳2間と4畳半、勝手と便所。6畳間のひとつは板の間で炉がある。 西南の役で評価をあげる 第5章 第七師団の創設 北海道で徴兵は明治22年から行われていたが、仙台第二師団に属する青森歩兵第5連隊に入営していた 明治29年5月12日創設(屯田兵4大隊+騎・砲・工各1個隊) 明治35年まで増設、改編がつづく 明治33年、初代師団長の永山中将から大迫中将に代わる 土地買収は極秘裏に行われた(地価高騰を防ぐべく) 明治32年からの建設工事は総工費329万円あまり。 ”現在の価格でおそらく100億円に達するものと推定されるが、当時の民度、貨幣価値等からいえば現在の1000億にも相当するものともいえよう” 俄然旭川は活況を呈し 多い時は8000人、少なくとも5000人の大工・職工・人夫を使用して突貫工事 全国から労働者が雲集、飲食店が乱立、白昼売春婦が袖を引く、終夜馬車の音が絶えない 陸軍省と大倉組との癒着、欠陥工事など連日報道されるもうやむやに "この新兵舎には電灯も水道もなかった" 電灯は明治35年1月、水道は大正3年3月から 師団通りなどは雨でぬかるむので丸太道 練兵場は森林を伐ったばかりの湿地、洪...

公式戦史から歩兵第27連隊の動きを読む(1) ~12月1日

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参謀本部編の 明治卅七八年日露戦史. 第6巻 9 旅順要塞ノ攻略  から、歩兵第27連隊の動きを拾ってみる。 まずは12月1日まで 第7師団は11月11日に第三軍の戦闘序列に入り、19日に主力が大連上陸 ただし当面は総予備隊として、203高地から少し離れた曹家屯に宿営 11月28日、第26連隊は第1師団令下となる。他は曹家屯に留まる。 11月29日 いよいよ第27連隊も203高地へ向かう。 ただし第1大隊は予備隊として曹家屯に残る 金カムメンバーが第1大隊だと物語進まないので、第2・3大隊としましょう AM5:15発、9:30に標高164高地西北の谷地に開進おわる PM1:45、翌30日の攻撃命令下る ここでなお、歩兵第27連隊は予備隊になる 他の隊は、隊伍を整え位置につき鉄条網を破るなどなど夜中まで活動 11月30日 朝から攻撃開始した歩兵第28連隊(村上大佐)が苦戦し、友安少将に増援を要請する ここでついに歩兵第27連隊が戦闘に加わります。 第2大隊が203西北高地へ向かう 第5・第6中隊が村上大佐の令下につく 第28連隊+第5・6中隊がついに山頂の散兵壕に達する しかし山の反対側10メートルの距離から銃火・手榴弾などを浴び、さらなる増援を要請する PM6:30、師団長、第14旅団長に第3大隊と工兵第7大隊を率いて203高地へ向かわせる PM11時過ぎ、203西北麓に着。 PM10:30、第2大隊第7中隊が増援に出る 山頂の村上隊に辿りつき、大佐の指揮で戦うも ”村上大佐の率いる諸隊を合し残兵400余りに過ぎず。殊に将校の全部死傷し村上大佐みずから兵卒を指揮するに至れり。”という惨状に この第28連隊は第2大隊が別行動なので、600~2000名 それに3中隊の600名余りが加わって、本来1200~2600名のところ 残兵400ということです。 このあと、第3大隊の各中隊、第1大隊の一分中隊も、順次村上隊の増援に投入され、山頂を奪ったり逆襲されたりが、夜中2時過ぎまで続きますが、散兵壕内から手榴弾等で攻撃してくるロシア軍にジリジリ押され、半分ほどに減ってしまった兵卒が 斜面の死角に伏せて耐えるだけの状況になります 夜が明けたら到底持ちこたえられないと判断し、朝4...

半藤一利『日露戦争史』

事実と人情とバランスよく、迫力ある臨場感で記述された名著だと思います。全体としてどのような戦争だったのか腹に落ちる。以下、印象に残った箇所の抜粋。 2巻 第11章 旅順やっと陥落す ついでに伊藤軍令部長あてにも、児玉はがぜん尻をまくってみせた。 「海軍は、バルチック艦隊を迎え撃つために、内地の造船所で艦艇の修理をしなければならないというが、全艦艇を一時に修理する能力なんてないはずだ。当然、交代で修理せねばならぬ。それなのに全艦艇を引き上げるというのは、陸軍にたいするいたずらな強要である。なぜに海軍はいまだ現れぬバルチック艦隊に怯えて陸軍作戦にまで干渉するや」 これには海軍中央がカンカンになった。伊集院軍司令部次長の名義をもって十八日、児玉総参謀長あての猛烈な抗議電報が遼陽に叩きつけられる。 「一月上旬をもって旅順艦隊の戦闘力を奪うというが如きは、時機すでに去るものにして、いまだもって目下の最大急務を充たすに足らざるものなり」 児玉は喧嘩となれば大枚をはたいて買ってでもでたい性分。(p.336) ここを、読むとやはりそのときの乃木大将の心事をわがものとふりかえて、深く同情せざるを得なくなってくる。東京の留守宅には、あるいは投石し、あるいは罵詈雑言を投げかける民草の数知れず、「われわれが兵隊をつくってやれば、端から殺してしまいおって」(p.343) 「兵の旅順攻撃を評する語に曰く、ラッキョウの皮剥きなりと。《中略》「二十六日来入院数一千四百名、現在七十七名(内七名内科)、帰隊二百三十、自傷八十、このほか自傷にてみずから帰隊を希望し帰隊せるもの十名余あり、帰隊のうちに含めるをもって実際の自傷は九十名内外!!」(p.344) 山県総長は・・・「なぜ、また二十六日に総攻撃開始なるや」・・・その返答が・・・思わずポカンと開いた口が塞がらなくなる。 「二、南山攻撃の突破は、じつに二十六日なりしをもって、第三軍将卒はこの縁起を祝う。 三、偶数は割り切れる意味において兵卒は歓ぶ」 前澤氏は、部下の感情を重くみて決定というのは常軌を逸した責任転嫁であるといい、「このような無能な軍司令部の命令で攻撃を続行しなければならなかった将兵こそ悲惨である」と慨嘆している。まったく同感というほかはない。(p.348) 以下、各師団の各突撃隊もまた然りで、かくに忍び...

花沢中佐と尾形母のいきさつを推測する

作中でわかっていること: 母は茨城出身の浅草芸者 尾形が生まれたころ、父は近衛歩兵第1連隊長、中佐 本妻との間に男児が生れるとぱったり通わなくなった 祖母はまだ赤ん坊の尾形と母を茨城へ連れ帰ったが 鯉登少尉「尾形の父である花沢中将」鶴見中尉「尾形上等兵は・・・花沢中将が妾に生ませた子供」 これを踏まえて、いきさつを妄想してみたい。 当時の花柳界について、特に芸妓個人については、あまり資料が見つからない。 ・『芸者論』岩下尚久 ・『いつでも今がいちばん。』浅草ゆう子 ・『日本の下層社会』横山源之助 ・軍人御用達といえば赤坂、新橋。ほかに柳橋が一等地。 ・浅草は二等地。吉原とは別物。浅草公園が1884年に作られた。 ・中佐の年俸1752円。http://www.bunbun.ne.jp/~s_toshiyuki.r104/historyrs.html (明治40年8月22日の佐賀新聞記事)  巡査が月12円という。12円を20万円に換算すると、中佐の年俸は4400万円を超えるが、いまより極端な格差を考えると、  巡査の月給15万円くらいかもしれない。それでも中佐の年俸は2190万円。 ・戦地にできた遊郭が1円とか2円というはなしが従軍記のどこかにあった。  我々兵卒には手が出ません、というとおり兵卒の月給なみ。 母のいた置屋がどの程度の格だったかわからないけど、中佐ならそうそう低級なところへは行けまい。というかそうであってほしい。不見転じゃあんまり悲哀だから。 であれば、なりゆき・なし崩しに男女の関係になるのは難しかろう。女将の眼が光っている。 とすれば正式に旦那になっていたのだろうか。たしかに高給取りではあるが、月々の仕送り位はともかく旦那披露の係りをスパッと出せるほどの余裕はどうだろう。そこが気になる。 ま、ともかく旦那になって家を世話して月々の仕送りもしてたとしよう。ここから妄想の度合いが高まるけど、ほどなく尾形母が妊娠、座敷にでるのは難しくなり旦那への依存心が高まる、花沢ちょっとうんざり、そのうち本妻も妊娠がわかり家庭に回帰しちゃう、尾形母は先行き不安や出産・育児ストレスでノイローゼ、ますます足が遠のく悪循環、という感じか。陳腐にいけば。 その始末だけども、茨城から祖父母が出張ってくるの...

第七師団・第27連隊の死傷者、弾薬損耗数

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従軍日記を2冊、書簡集を2冊読んで思うのは、従軍体験というのは所属部隊によって相当違うということ。全体としては激戦の日でも、所属中隊が予備隊であれば特になにごともなく過ぎるかもしれない。負傷や疾病で病院と戦場をいったりきたり、戦闘はほとんど体験せず、という人もいる。 そこで、参謀本部による日露戦史(以降「公式戦史」)から、第七師団および歩兵第27連隊の死傷者数・弾薬損耗数をとりだし、歩兵第27連隊の足取りを追ってみた。 参考資料: 明治卅七八年日露戦史. 第6巻 9 旅順要塞ノ攻略 明治卅七八年日露戦史. 第9巻 11 奉天附近ノ会戦 黄色は、第7師団全体に対して歩兵第27連隊の死傷者数・弾薬損耗数(小銃弾のみ。砲弾は含まない)が20%を超えている箇所。 旅順攻略の日別の記録は見つからなかった。 1/3~2/26 は記録が見つからなかった。この間の第7師団は、旅順で捕虜監護送、旅順の守備、欠員補充、奉天を目指して北進という活動内容で、死傷者数はゼロではないにしても、多くはなかっただろう。 私は軍事に無知なうえに公式戦史の本文は未読であって、この数字で何かを判断するのはどうかと思うが、そう言っても始まらないので感想を述べる。 歩兵第27連隊の日露戦争体験は、旅順攻略の11月30日、12月5日、奉天会戦の3月4日・6日・9日・10日がピーク とくに3月6日と3月10日は、それぞれ195人・96人の兵卒が死亡する、最大の激戦であった 3月10日にはロシア軍がすでに撤退を決めている一方での死傷であり残念至極 旅順ですでに死亡425名・負傷726名。 負傷から死亡にダブルカウントされるのか、負傷のうち戦線を離れたのがどれくらいか分からないが、ざっと半分ほども補充を要する状態だったと推測する つまり、奉天へ向かったとき、旅順経験者と新顔が半々 全期間で807名の士卒が死亡している。 連隊の定員は未確認だが1000~1200、旅順ののち500名補充されたとすると1500~1700名中の800名余りなので、2人に1人が死亡という惨状。 しかしその死亡率も当連隊が突出しているわけではない それ以外の日々は、師団のなかでも比較すれば平和なグループだったのではないか 弾薬損耗数が割にすくない。無駄弾を撃たない集団だったのか、補充が間に合わなかったのか(...

『血烟』から歩兵第27連隊の動きを探る

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日露戦争に 第七師団 歩兵第27連隊 補充大隊 で従軍した安川中尉の軍記『血烟』を手に入れたので、歩兵第27連隊の動きを抜粋してみたい。 ゴールデンカムイのメンバーは現役兵でないとパッとしないと思うので、補充大隊の安川氏とは違う大隊だろうが、少なくとも連隊まで同じなので、おおむね似た経過と思われる。 『血煙』安川隆治 著、明治44年12月24日 東亜堂書房発行。手元にあるのは明治45年1月11日の13版。相当に売れたものらしい。なにしろ大隈重信、斉藤大将、牛山少将、竹迫大佐の序文付である。 安川氏は一年志願兵として明治34年に入営、軍曹で満期除隊、翌年の勤務演習時に曹長・見習士官となる。将校試験に主席合格して少尉。日露戦争では中隊長代理を務め、奉天で負傷するまで前線に立つ。戦後中尉に昇進。早稲田大学卒(時系列わからず)。その後は実業家として成功した模様。なんとも立派な人物であります。 明治37年 ・8月4日 第七師団に動員下令 ・10月末から1ヶ月くらいかけて第七師団の各隊が出征。歩兵第27連隊は10月27日発。 11月 安川氏らの予備大隊は北海道から動かず。 その間、第27連隊の他の隊はすでに旅順攻略に参加していた。 30日 海鼠山から203高地へ移動、23時より盤龍山のH砲台を攻撃(第1・2中隊が突撃、第3・4中隊は予備)。 29日 第14旅団長配下で、第27・28連隊は右翼攻撃隊となる 30日 22時より攻撃。西北角の保塁線を奪取するも翌1時に逆襲され撤退 31日 19時、出動。行路は死傷者に埋まる。第7・8中隊とくに酷。第3大隊退却。 12月 1〜4日 休戦。死体収容。 5日 第27・28連隊から90名ずつの6区画+第25連隊からの30名にそれぞれ工兵をつけ、西南角から攻撃。未明より砲撃、7時突撃し占領。 17日 3時より高丁山を攻撃。28連隊は正面。占領。 24日まで高丁山の守備、その後、赤坂山の守備 27日 安川氏ら補充大隊が到着。この間、坑路作業続く。  ちなみに安川氏らの足取りは: 11日 出征。13日に青森、17日に宇都宮、以降 赤羽、梅田、神戸、広島 21日 宇品港発。船酔多数。 大連湾に上陸、柳樹屯のロシア人街に泊まる 25日 早朝、旅順へ...

日本陸軍便覧

米国陸軍省 編、光人社刊。 米国陸軍省が太平洋戦争に先立って情報収集し、マニュアルとして軍幹部に配布したものらしい。日本帝国陸軍の組織、教育、装備、戦術などあらゆる情報を網羅し分かりやすく整理されている。評価も長所短所とも冷静に記述されている。 大変に面白く読んだ。といっても肝心の戦術についてはボリュームがありすぎてサラッとみただけ。この本を借りたときは、歩兵各自の装備品が知りたかっただけなので。また読みたい。夜襲の多用について何かあるかも。 戦争に際し、このように徹底的な相手理解を追及する国に、相手をあなどって勝てる気で向かう日本が勝てるわけないと痛感する。 以下、わずかながら抜粋。 第7章 日本陸軍の戦術 他国民であればその任務には不十分と考える兵力で、日本軍が進んで敵陣地を攻撃することは、彼らのいわゆる軍事的優勢という自信に基づいている。この自信の説明には日本人の心理状態、国民特有の虚栄心、および過去の軍事的成功の分析を必要とするが、この研究のおよぶところではない。 日本軍の将校にとって「面目」および「不屈」に対する考慮は非常に大切であり、それゆえ彼らは「机上の」誇張した拡張に耽りがちになる。彼らは装備が不十分な軍隊に対しては放胆であることを証明したが、一流の優れた装備を保有する軍隊に対しては、より慎重な戦法を選ぶのが当然のことと思われる。 過去6年間の実践が示した多くの機会があったにもかかわらず、日本軍は常識的な戦術および戦技の一定の基本原則に違反し続けてきた。このような違反を改めない彼らの性癖は、主として敵に対する不適切な判断、および敵も保有する同等な軍事能力を信じないことが基礎になっている。最近の経験が日本軍の役に立ったか否かは、まだ不明である。 c. 短評 攻撃の携帯および実際の応用について、日本軍の原則の研究から得た印象は、次の通りである。 (1) 多くの場合、日本軍は伝統的な見方であればより消極的な行動が要求されるときにも攻撃しようとする。攻撃は軽率で大損害をもたらすかもしれないが、精神力および決断には決して欠けることがない。 (2) しばしば正面攻撃が、不適切な支援兵種の下で行われることは、珍しいことではない。 ・・・ 砲兵は、その能力を超える任務を割り当てられているようである。

ライフル射撃姿勢について

 射撃姿勢を描きたいが資料が探せない。「射撃入門」みたいな本・・・図書館でもAmazonでも探せず。日本における銃の遠さを感じた。 日本ライフル射撃協会の教本 がまず見つかったが、日露戦争時代の銃と現代の競技用の十では、銃の形が違う以上、姿勢もずいぶん違うようだ。 ひとまず、このページが参考になった。   第一次大戦頃のライフルを構える姿勢 ライフル射撃協会の教本も、姿勢自体は違いがあるとはいえ、考え方で参考になった。  立射のポジションの導入期にはいかに骨格構造で銃の重量と体重を保持するかという課題に取り組むこととなる。 骨格で銃を支えるとは左腕が骨盤に接するような骨格構造体を作り、銃の重量が左腕を介して直接的に床に伝わる状態を実現することにある。ボーンサポートは射撃姿勢のもっとも重要な要素で基本的に100点の可能性の大小はこの要素で決定され、競技射撃の技術論もボーンサポートが完成されていることが前提となる。 下半身の形状は一般的には左脚が直立し、右脚は斜め後方に出るような形状になる。 左右の脚への荷重バランスはおおむね左7:右3程度の状態であるが、この点の個人差は大きい。 重量物(立射の場合銃と頭部)がポジションの中で全身の重心点の垂線上の近くにあることが次の必要要件 上半身が過度な傾きを持たず、想定されるヒップエリアの重心位置に銃身の垂線、頭部の中心の垂線が通過する状態 天井から見れば銃を構えた両肩のラインとスタンスの両足のラインの中間の角度で腰のラインが引かれる程度 銃の荷重そのものが銃を体の重心にむかって沈み込ませる感覚を得るはず 頭部は垂直からやや前傾するのが通常である。 目の能力の維持、水平感覚の効率から左右方向に頭部が傾くことには問題を含む。 頭を右に傾けなければサイトが覗けない競技者は銃を左に傾ける。 一流競技者の多くは銃を傾けて使用しており、傾けることにより頭部の適正な保持と重心の位置調整を行っている。 尾形の射撃シーンで往々にして槓桿が上向きに描かれているのは、ひょっとしてこれですか?!単に見た目が締まるからかと思ってて済みません! 頭部をやや前に傾けて首の後ろに僅かな緊張感を得て姿勢を安定させることは差し支えない。 極端な前傾によるものは問題外であるが上目使いの照準は正常である 上級者は良い撃発が保証されない...

メモ:『ある歩兵の日露戦争従軍日記』

茂沢佑作、草思社 新潟県出身、一家で東京に移住し、商業家をめざして商船に三年間乗り込む。明治35年12月、本籍のあった新潟で(34年?)入営し、36年末に上等兵。第一軍、第二師団、歩兵第15旅団、歩兵第16連隊として出征。***負傷後は中隊本部で会計事務を手伝い、奉天会戦後に伍長に昇進、分隊長となる。一年間の再服役を志願したのち、明治38年12月30日に復員。除隊後は毛織物服地卸・紳士服仕立て業、全国洋服組合の理事長。昭和21年没(65歳)。 軍隊では中隊が「家」に喩えられた。平時に、全成員がたがいの顔と名前と来歴を知っている一次集団としての最大単位だからである。中隊の外部の話は、下士卒の軍隊暮らしにとってあまり死活的と思われない。・・・・中隊長は大尉(または中尉)で、いわば「父親」。・・・冗談でよく分隊長が「母親」と擬された。兵卒たちの直接の面倒を見たからである。(p. 8-9) まず将兵はいきなり新潟駅まで二十数キロメートルの雪道を歩く。・・・宇品までが二週間がかりだ。宇品で乗船を待つあいだ、部隊は兵舎ではなく町家に分宿している。・・・輸送船は・・・わずか四日で・・・鎮南浦に安着。しかし上陸作業だけで三日かかる。(p.14-15) ---- 4月3日 また今日は砲兵掩助をなしつつ約四里の紅軍をしたが、道路ややよろしくやすやす甘三里に着し宿営した。日用品でも飲食物でも酒保がないため贖い得ず、実に不自由であることよ。土人の商人はどこにあるやらわからず。あっても土人の品物を買って食うなという命令で、勢い徴発せねばならぬ。それで毎日労働が烈しいから最も飲食物を求めるので、六合の米(実は五合くらい)もとうてい食欲を満たすことはできないので、宿舎に着くと物品を探すのが例になっている。今日もその捜索の結果鳥三羽、玉子十七個に豆や粟等も得て久しぶりに異を満たした。 4月10日 ・・・上陸後初めての入浴にて、そもそも甕風呂のはじめである。 4月23日 ・・・宿舎の老婆が兵隊の言うことを聞かぬので、僕が一つ叩きつけてやったら、旅団司令部へ訴えたと見えて照会を食ったが、べつに何事もなかった。 5月1日 ・・・午前九時になると我々歩兵隊に前進の命は下り・・・弾丸は雨飛、戦闘の初舞台に上った吾はまったく夢中と言ったほうが適当であろう。[九連城の戦い] 5月6日 晴。ようやく寝たかと思うと...

メモ:『兵士たちが見た日露戦争』

横山篤夫、西川寿勝 編著、雄山閣 p.11 近現代の戦争 1873(明6) 徴兵制度の開始 1877(明10) 西南戦争 1894-95(明27~28) 日清戦争、下関条約、台湾征討 1900(明33) 北清事変 1904-5(明37~38) 日露戦争、ポーツマス条約 1910(明43) 韓国併合 p.13 日露戦争の主な戦闘と兵力 月日 主な戦闘 戦闘軍 日本兵力 ロシア兵力 4/30, 5/1 鴨緑江の戦い 第一軍 42,000 24,000 5/25,26 金州城・南山の戦い 第二軍 38,500 17,000 6/14,15 得利寺の戦い 第二軍 33,600 41,400 7/23 大石橋の戦い 第二軍 34,000 20,000 7/31, 8/1 析木城の戦い 第四軍 34,400 33,000 8/19~,10/26~,11/26~ 旅順要塞攻略戦 第三軍 64,000 47,000 8/24~9/4 遼陽の戦い 第一・二・四軍 134,500 224,600 10/9~20 沙河の戦い 第一・二・四軍 120,800 221,600 1/25~29 黒溝台の戦い 臨時立見軍 53,800 105,100 3/1~10 奉天の戦い 第一~四軍・鴨緑江軍 249,850 309,600 p.17 沙河の戦いのころ、・・・遼陽の戦いで日本軍は銃弾・砲弾を撃ちつくし、これから生産する分も旅順要塞攻略用に手いっぱい、補給のめどはたたなくなっていたのです。しかし、戦地の兵站倉庫に弾薬がないことは前線には知らされませんでした。繊維の喪失どころか、陣地防衛も不可能だったからです。この窮状にひとり気を吐いた部隊がありました。それが各軍第一隊、重砲八門からなる戦利野砲大隊です。・・・ロシアから奪った大砲でさかんに攻撃を仕掛け、砲弾の致命的欠乏はロシア軍に悟られずに済みました。

参考資料リスト

ゴールデンカムイの、というか尾形の、二次創作したくて読んだ本リスト。ほかに良い資料あれば教えてほしい・・・。 帝国陸軍 『日本陸軍便覧 : 米陸軍省テクニカル・マニュアル』 『日本の軍装』 素晴らしい 『日本の軍用銃』 村田銃、30年式、38式すべて大判写真で見られて素晴らしい 革帯、弾薬盒、掃除道具、射撃手帳なども載っている 入営心得軍隊実務 (国立国会図書館デジタルコレクション) 『日本陸軍 兵営の生活』『写真で見る明治の軍装』『写真で見る日本陸軍兵営の食事』 3冊とも藤田昌雄さん著。 軍装はビジュアルより変遷に重きを置いた感じなので、お絵かきには『日本の軍装』のほうがいいかも 『兵営の生活』は買いたい。ほかにちょっと見当たらない情報密度。 茨城県 『茨城県の歴史』 『聞き書き茨城の食事』 方言関連 北海道 『北海道の歴史』 鹿児島 『鹿児島・沖縄の童謡』? 日露戦争『地図で知る日露戦争』 『日露戦争古写真帖』 『日露戦争史』半藤一利 『兵士たちがみた日露戦争』 『兵士たちの日露戦争』 『血烟』 明治卅七八年日露戦史 (国会図書館デジタルコレクション) サイコパス関連 戸籍法 明治19年 戸籍取扱手続き(用紙見本あり) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787969/402 (明治31年・法律第12号) 国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000017311 ---- いまいち活かせない感じのもの 『芸者と遊び』『いまが一番!』 『幕末明治 古写真帖』『明治の日本』『日露戦争と第1次世界大戦』『古写真で見る江戸から東京へ』『北海道写真史』 明治の写真って遠景・建物がほとんど、、、

サイコパスについて理解したところまで

サイコパスに関する本を数冊読んで理解した範囲のことを整理しておく。 現代のサイコパス研究は刑務所ではじまった。囚人のなかにごく一部だが、殺人等の重大犯罪を繰り返す者がいることはわかっており、仮釈放の判断に際し、そのような者を識別したいという動機から。ロバート・ヘアらにより、そのような者達に共通する性質がPCL-Rという20項目のチェックリストにまとめられた。1項目0〜2点で対象者を評価・インタビューし、おおむね27点以上をサイコパスと判断する。 サイコパスは、良心を持たない、感状的に共感しない、他者を操作する、自己の目的に(過度に)集中する、

尾形百之助

■年齢 明治37年(1904)の日露戦争に上等兵として従軍し、終戦を迎えている。伍長勤務・伍長等にはなっていない。 第七師団が日露戦争に参加したのは、明治37年11月から。 徴兵か志願か・・・17歳で志願とかだとさすがに(見た目に対して)若すぎると思うので、徴兵と仮定すると  - 明治35年12月の徴兵検査で合格  - 明治36年1月入隊、二等卒から上等兵候補。12月に選抜をうけて上等兵に  - 明治37年11月大阪から旅順へ。12月末で兵役終了するはずだったけど、戦争になってしまったので即時召集で延長  - 明治38年2月奉天会戦。以後9月の終戦までロシア兵と対峙しつつ待機。 という流れになり、 この場合、生まれは明治15年の後半から明治16年の前半と推測されます。 ゴールデンカムイの物語は明治38年末あたりからなので、22~3歳か。若いな・・・。 これより前に入隊しているなら「兵士として卓出」(鶴見)な彼が上等兵に留まっているとは考えにくい・・・問題行動ありで昇進できなかった・・・? その場合は、25歳くらいもありえる・・・?わかりません。あまり何年も昇進せず留まっているのも難しそう(予算がないから)。 なんにしても兵役期間は終わっているけど軍に留まることを選んだわけですね。 ■なぜ第七師団? 赤ん坊のうちに茨城の祖父母宅へ連れ戻された。そのまま育てば第一師団のはずで、第七師団にいるということは、どこかで北海道(せめて東北)に転居したはず。 母の死後、さすがにもてあまされ、北海道へ入殖する誰かに引き取ってもらったとか・・・? ■花沢中将との関係が周囲に知れた経緯 自己申告・・・?ありえなそう。 弟くんが言いふらす・・・?「公然の秘密」となってからならともかく、何もないところで言いだしたらさすがにアホでは。 上層部から漏れ伝わる・・・?花沢本人が尾形親子の存在を闇に葬ってそうなので、よほどでなければ20年前の事情が探り出されはないかと・・・鶴見、お前か・・・? とかとか、考えるにつけ、思うのは、裏付けなしでは、誰が言おうが「公然の秘密」にまではならないのでは、ということ。 眉毛と目が瓜二つ、でもやっぱり根拠なければ他人の空似で済ませられる。 つまり戸籍に父・花沢の記載があった=認知されていた、のではないか。 明治19年戸籍法では「婚姻外で生まれた子は母の戸籍に私生...

メモ:『サイコパス 秘められた能力』より

わたしの父はサイコパスだった。・・・ 「人間が進化の過程で恐怖を発達させたのは、捕食者から身を守るためなんだとさ」と父が私に言ったことがある。「でも、原始時代じゃあるまいし、今時、治安の悪いエレファント・アンド・キャッスルの界隈だって、サーベルタイガーはそんなにうろついてやしないよな」・・・ ・・・わたしたち人間はどうやら本当に、捕食者から身を守るために恐怖を発達させたらしい。・・・ しかし何百万年もたって、街角に必ず野生動物が潜んでいる心配のなくなった世界では、この恐怖メカニズムは過剰反応する可能性がある。神経質なドライバーがいつでもブレーキをを踏める態勢をとっているようなものだ。・・・ ・・・カーネギーメロン大学の経済学・心理学教授であるジョージ・ローエンスタイン p.12-13 精神障害がもたらすメリット、暗雲からのぞく光明や心理的慰めを探っていけば、どんな障害であれ、全くプラスにならないとは考えにくい。・・・ こんな質問をサイコパスに投げかけたら、たいてい、そんなことを聞くお前の方がどうかしている、と言いたげなまなざしを向けられるはずだ。サイコパスには暗雲なんてものはない。あるのは光明だけだ。・・・ 私はあらゆる経歴を持つ非常に多くのサイコパスに会った・・・姿を見せるだけでサイコパスだと分かる、極悪非道な大物たちだ。その一方で、社会を食い物にするどころか、冷静沈着さと断固とした決断力によって社会を守り、豊かにしているサイコパスにも会った。外科医、兵士、スパイ、起業家――なんと弁護士もいた。p.17 2009年、アンジェラ・ブックらカナダのブロック大学の研究チームの実験「テッド・バンディの「いい被害者は歩き方でわかる」」を検証。47人の被験者は、12人をその歩き方から「カモにされやすさ」を評価する。実際に犯罪被害にあったことがある人を当てられるか。精度は、サイコパスと診断された受刑者>サイコパス的傾向をもつ学生>それ以外の学生。 イギリスのトップクラスの神経外科医の発言「執刀する患者に思いやりなんて抱かない。そんな余裕はない。オペ室では別人になる。冷酷無慈悲な機械になって、手にしたメスやドリルや鋸と完全に一体化するんだ。脳という雪山で死を相手に戦っている時は、感情の出る幕はない。感情は混沌をもたらし、仕事に差し支える。私は長年、感情を探し出してはことごとく抹殺...

メモ:『サイコパス・インサイド』より

サイコパス・インサイドより引用 「サイコパスの脳理解のための神経解剖学的予備知識」脳スキャン画像 前頭葉と側頭葉の一部の脳機能低下を示す驚くような稀なパターンが共通して認められた。 カリフォルニア大学医学部アーヴァイン校精神医学・人間行動学部門の教授。 人がサイコパシーを持つ要因は、生物学的には眼窩皮質と前頭前皮質腹内側部の不活性(熱い認知)、セロトニン、ドーパミン、戦士の遺伝子(MAO-A短型)などがキーワードになる。エピジェネティック・マーキングも関係があるかもしれない。生育環境の影響ははっきりしないが、幼児期の被虐待が戦士の遺伝子の攻撃性を増大させるという調査結果がある。脳の損傷による場合もありえる。 著者は①前頭前野皮質眼窩部と側頭葉前部、扁桃体の異常なほどの機能低下、②いくつかの遺伝子のハイリスクな変異体、③幼少期早期の精神的、身体的、あるいは性的虐待を、人がサイコパスになる三本の椅子の脚と考えている。 1994年に同僚のスタンリー教授が臨床心理学博士後期課程の仕上げに行った心理検査の内容が興味深い(以下に引用あり)。 2000年に妹と娘から受け取った手紙の話・・・”二通の手紙とも幾年にもわたって私が彼女らにしてきたことへの非常に大きな失望について語っていた。これらの手紙では、私が薄っぺらな人間で、あまりにもしばしば当てにならないことをほのめかされていた。これらの手紙の肝心な点は、彼女らが私にはその全面的信頼、感情、支援、愛情をこれまで終生捧げてきたのに、私はほとんど何も答えてこなかったという彼女たちの思いがつづられていたことである。人間なら心に抱き、必要としているあの共感性、実際の対人関係上の情緒的共感性ないし深い結びつきという点では、私は彼女ら二人に何も答えてはいなかった。”(孫をレストランに同伴すると約束したのに、孫を置いて自分だけレストランに行ってしまったエピソード)・・・”手紙を受け取ったときに、「そんなことをいつ私はしたのか?」考えたが、その答えが見つからなかった。”・・・”これらの文面を総括し、真剣に考えるには10年の年月が私には必要だった”・・・”率直に言えば、自分に認めたことは、「 私は気にもならない ("I DON'T CARE")」ことができるということだった。(p.211-212) 私見では、資質[遺伝子...

サイコパス系キャラクターを考える

好きなキャラクターと言えば、アッシュ(BANANA FISH)、ジェームス(PALMシリーズ)、リヴァイ(進撃の巨人)という私にど真ん中なキャラクターがまた一人現れた。尾形百之助(ゴールデンカムイ)。日本帝国陸軍第七師団の上等兵として日露戦争に従軍したのち金塊探しの各勢力に転々と加わる、通称「孤高の山猫スナイパー」。どんな時も冷静さを失わない射撃の達人だが、人を人とも思わない、腹の底の読めない人物であり、母・父・異母弟を自ら手にかけた †闇† キャラでもある。 私達は、有能サイコパス系キャラにどうして惹かれるのだろうか。架空の人物とはいえ、彼らは自分の殺人行為等とどのように折り合いをつけているのだろうか、トラウマや葛藤は押し隠されているのか存在しないのか。こういった人物・人格はどの程度、現実的にありうる存在なのだろうか(いいとこどりのファンタジーにすぎないのか?)。と長年気になっている。 まだまだ答えは見えていないが、図書館にリクエストした本を返さなければならないから、ひとまずサイコパスについて理解したことを書いておく。 読んだ本 出版年順に。 『診断名サイコパス』ロバート・D・ヘア 早川書房 2000/8 (1993) 『サイコパスという名の怖い人々』 高橋紳吾 河出書房新社 1999/12 『人格障害とその治療』 町沢静夫 創元社 2003/9 『サイコパス―冷淡な脳―』 ジェームス・ブレア他 星和書店 2009/7 (2005) 『パーソナリティ障害の素顔』 スチュアート・C・ユドフスキー 星和書店 2011/4 (2005) 『サイコパスを探せ!』 ジョン・ロンソン 朝日出版社 2012/6 (2011) 『サイコパス・インサイド』 ジェームス・ファロン 金剛出版 2015/1 (2013) サイコパスとは 現在もっとも普及しているサイコパス診断のチェックリストが「PCL-R」。ロバート・ヘア教授らが開発したもので20項目について0~2点を採点し、30点以上がサイコパス、27点あたりがグレーゾーン。たしか、刑務所に捕まっている重罪犯の再犯可能性を推定する目的で作られた経緯があり、その実効性が確かめられている。その項目は: 感情/対人関係 口達者で皮相的 自己中心的で傲慢 良心の呵責や罪悪感の欠如 共感能力の欠如 ずるく、ごまかしがうまい 浅い感情 社会的異常...

「人殺し」の心理学』 デーヴ・グロスマン

貸してた進撃が返ってきて読み返したらリヴァイ熱が再発した。だいたい私は物語を人物への興味でしか読めない、推理小説の伏線はわからないしファクト重視の歴史ものは読めない。だから進撃も私には要するにリヴァイが圧倒的に強くてかっこよければそれでいいんだけど、それにしてもどういう人格なのか気になりだした。 相当トラウマティックな生い立ちにも関わらず精神衛生をそれなりに保ててそうなのは、どうしてなのか。巨人が理解不能な化け物だったうちはともかく、元は人間と分かってから、どう心の折り合いをつけているのか。 バナナフィッシュのアッシュ、パームのジェームスも似た設定だけど、あれらは「まあ天才だから……」で通してた気がする。アッシュは割と苦悩してたし。 サイコパス(ソシオパスと区別したうえで)と捉えればいいのかな?感情をいれず超合理的に判断・行動するということで。壁の外に人類を開放する、巨人による人類全滅を避けるのが彼にとっての目的か?「俺なら巨人に喰われる地獄より人が殺し合う地獄を選ぶ。少なくとも…全人類が参加する必要は無いからな。」あたりからすると。 現実の人間心理にどれだけつなげられるものなんだろうか。 ぱっと思いついたのがシモ・ヘイヘだけど、伝記本が図書館になかったので、ひとまず『「人殺し」の心理学』を借りてきた。それが良い本だった。 ---------------- 現代の日常からは死が排除されタブー化されている(病院での死、屠殺の工業化)。そのくせ病的なまでの興味がある(娯楽としての死)。ビクトリア期に性が抑圧されると同時にポルノ・児童虐待が生まれたように。 人間は本能的に殺人に強い抵抗がある。動物と同じように、同種間の戦いはできる限り示威で済ませるものだった。第二次大戦で消費された弾薬数は実際に殺された人数をばかばかしいほど上回る。多くの兵士が仲間の救護、補充、斥候などを買って出る、それとわからないように狙いを外す等で人殺しを避けていた。 しかし第二次大戦でそのことが判明してからは、各国の軍事教練が、実際に人を殺せるようにする、内容に変化した。具体的には、リアリティ追求(人型の的・偽物の血を飛ばす・悲鳴などを鳴らす等)した環境で、条件反射的に発砲して当てる訓練。リハーサル。 加えて対象との距離が有効。人種的距離、文化的距離、倫理的距離、物理的距離。 それによってベトナム以...