メモ:『ある歩兵の日露戦争従軍日記』
茂沢佑作、草思社
新潟県出身、一家で東京に移住し、商業家をめざして商船に三年間乗り込む。明治35年12月、本籍のあった新潟で(34年?)入営し、36年末に上等兵。第一軍、第二師団、歩兵第15旅団、歩兵第16連隊として出征。***負傷後は中隊本部で会計事務を手伝い、奉天会戦後に伍長に昇進、分隊長となる。一年間の再服役を志願したのち、明治38年12月30日に復員。除隊後は毛織物服地卸・紳士服仕立て業、全国洋服組合の理事長。昭和21年没(65歳)。
まず将兵はいきなり新潟駅まで二十数キロメートルの雪道を歩く。・・・宇品までが二週間がかりだ。宇品で乗船を待つあいだ、部隊は兵舎ではなく町家に分宿している。・・・輸送船は・・・わずか四日で・・・鎮南浦に安着。しかし上陸作業だけで三日かかる。(p.14-15)
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4月3日 また今日は砲兵掩助をなしつつ約四里の紅軍をしたが、道路ややよろしくやすやす甘三里に着し宿営した。日用品でも飲食物でも酒保がないため贖い得ず、実に不自由であることよ。土人の商人はどこにあるやらわからず。あっても土人の品物を買って食うなという命令で、勢い徴発せねばならぬ。それで毎日労働が烈しいから最も飲食物を求めるので、六合の米(実は五合くらい)もとうてい食欲を満たすことはできないので、宿舎に着くと物品を探すのが例になっている。今日もその捜索の結果鳥三羽、玉子十七個に豆や粟等も得て久しぶりに異を満たした。
4月10日 ・・・上陸後初めての入浴にて、そもそも甕風呂のはじめである。
4月23日 ・・・宿舎の老婆が兵隊の言うことを聞かぬので、僕が一つ叩きつけてやったら、旅団司令部へ訴えたと見えて照会を食ったが、べつに何事もなかった。
5月1日 ・・・午前九時になると我々歩兵隊に前進の命は下り・・・弾丸は雨飛、戦闘の初舞台に上った吾はまったく夢中と言ったほうが適当であろう。[九連城の戦い]
5月6日 晴。ようやく寝たかと思うと午前2時頃に起こされて3時に出発、大隊行軍なりしが途中鳳凰城にありし敵の退却を知る。白家山城に宿営したが随分疲れた。
5月7日 快晴。午前六時頃に起きたが白家山城に滞在することとなり、舎を替えて宿営す。本日より工事始まり使役を出す。あとは疲れ休み。
5月14日 快晴。・・・自分は正午から鳳凰城へ買い物に行き、蕪や菜をぶらさげ来る景色はいや可笑しかったろう。
5月21日 快晴。銃前哨の歩哨係をやめて正午第二小隊と交代して、鶏冠山なる前哨中隊に帰った。しかし、しばらくの滞陣で別に用事もなく無聊で困るが、内地の人は陣中にこんな閑日月のあるのを知るまい。自分もそうであったから。
6月1日 雨。午前七時十分整列、鳳凰城の西北方約四里ばかりの四台子に至り前哨本隊となりしが、雨天のため上と下から湿れる道は悪くなる。実に閉口した。本日は五月の一日を記念するため清酒各人に一合ずつ給せられた。
6月4日 快晴。午前は武器の手入れをして暮らし、午後は小隊長たる荒島少尉が遊びに来られたのでお話し相手を仕り、雑誌などを読んだ。・・・
6月14日 ・・・午後〇時より夏衣袴の服合わせあり。夏襦袢を渡された。その後自分は鳳凰城へ買い物に行った。
6月15日 曇。午前中洗濯をしたり、山の麓に土俵を築き相撲を取った。・・・
7月20日 曇り・・・敵の死体はそのままとなり、三々五々畑の中に散乱している。雨にさらされ日に照らされ、その腐敗したる臭気はふんぷんとして鼻を突き、彼我の帽子、銃床の折れ、服の切れ等、実にその戦闘のごとなりしかを察せられる。・・・吾々も暑い時に三日間紅軍の疲れを休める時間もなく前哨となり、三昼夜の幕営に体は疲労を増すばかり、それだのに炊爨をするにも水筒に一本の水を得るにも五、六百メートルの山道を上下せねばならぬ。それで朝飯が済むとただちに明日の昼食までの用意をしてるのである。兵卒の身では実に困苦欠乏に耐えざるものがある。
7月26日 曇りの晴。雨の止むのを待って飯の用意をしたが、白米が水のために褐色の飯ができた。・・・午後八時に引き上げ・・・中隊で土人より芋と塩を買って各々に給せられ、明日の朝食にせよと、とうてい芋のみにては運動する身は凌ぎきれず、畑の中を捜索して葱を見受け、芋と混ぜて塩煮にし、黄洞溝まで引き上げ午前二時頃にようやく宿営した。どうして寝たか判らなかった。
8月25日 快晴。・・・攻撃の計画を話されて注意を与えられた。それは弓張嶺夜襲のことで出発準備に取りかかった。午後六時に歩兵第十五旅団は前哨線の畑地に集合し始めた。そして月の出を待ったが、この間各将卒共に意気投合する連中は三々五々団を作って、あるいは談じあるいは謡いまた笑い、数時間の後には大修羅場を演じ阿鼻叫喚切りつ切られつするのであるが、それを知らぬごとくいと愉快そうに見受けたが、これでなくては戦に勝てまい。
8月26日 曇雨。午前二時には各隊とも弓張嶺の麓に展開をおわり部処が定まったので、もっとも静粛に登り始めた。・・・我が勢いには敵すべくもなく午前六時頃にはまったく占領しおわり、・・・午後六時頃に山麓の人家に警急舎営したが、中隊で一軒の家しかないので武装したまま立ち往生、それはよいが午後三時頃から雨が降りはじめたので炊爨の水、飲料水に不足を告げたので大いに苦しめられ、トウモロコシを追ってきて焚火に焼き夕食に代えた。
新潟県出身、一家で東京に移住し、商業家をめざして商船に三年間乗り込む。明治35年12月、本籍のあった新潟で(34年?)入営し、36年末に上等兵。第一軍、第二師団、歩兵第15旅団、歩兵第16連隊として出征。***負傷後は中隊本部で会計事務を手伝い、奉天会戦後に伍長に昇進、分隊長となる。一年間の再服役を志願したのち、明治38年12月30日に復員。除隊後は毛織物服地卸・紳士服仕立て業、全国洋服組合の理事長。昭和21年没(65歳)。
軍隊では中隊が「家」に喩えられた。平時に、全成員がたがいの顔と名前と来歴を知っている一次集団としての最大単位だからである。中隊の外部の話は、下士卒の軍隊暮らしにとってあまり死活的と思われない。・・・・中隊長は大尉(または中尉)で、いわば「父親」。・・・冗談でよく分隊長が「母親」と擬された。兵卒たちの直接の面倒を見たからである。(p. 8-9)
まず将兵はいきなり新潟駅まで二十数キロメートルの雪道を歩く。・・・宇品までが二週間がかりだ。宇品で乗船を待つあいだ、部隊は兵舎ではなく町家に分宿している。・・・輸送船は・・・わずか四日で・・・鎮南浦に安着。しかし上陸作業だけで三日かかる。(p.14-15)
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4月3日 また今日は砲兵掩助をなしつつ約四里の紅軍をしたが、道路ややよろしくやすやす甘三里に着し宿営した。日用品でも飲食物でも酒保がないため贖い得ず、実に不自由であることよ。土人の商人はどこにあるやらわからず。あっても土人の品物を買って食うなという命令で、勢い徴発せねばならぬ。それで毎日労働が烈しいから最も飲食物を求めるので、六合の米(実は五合くらい)もとうてい食欲を満たすことはできないので、宿舎に着くと物品を探すのが例になっている。今日もその捜索の結果鳥三羽、玉子十七個に豆や粟等も得て久しぶりに異を満たした。
4月10日 ・・・上陸後初めての入浴にて、そもそも甕風呂のはじめである。
4月23日 ・・・宿舎の老婆が兵隊の言うことを聞かぬので、僕が一つ叩きつけてやったら、旅団司令部へ訴えたと見えて照会を食ったが、べつに何事もなかった。
5月1日 ・・・午前九時になると我々歩兵隊に前進の命は下り・・・弾丸は雨飛、戦闘の初舞台に上った吾はまったく夢中と言ったほうが適当であろう。[九連城の戦い]
5月6日 晴。ようやく寝たかと思うと午前2時頃に起こされて3時に出発、大隊行軍なりしが途中鳳凰城にありし敵の退却を知る。白家山城に宿営したが随分疲れた。
5月7日 快晴。午前六時頃に起きたが白家山城に滞在することとなり、舎を替えて宿営す。本日より工事始まり使役を出す。あとは疲れ休み。
5月14日 快晴。・・・自分は正午から鳳凰城へ買い物に行き、蕪や菜をぶらさげ来る景色はいや可笑しかったろう。
5月21日 快晴。銃前哨の歩哨係をやめて正午第二小隊と交代して、鶏冠山なる前哨中隊に帰った。しかし、しばらくの滞陣で別に用事もなく無聊で困るが、内地の人は陣中にこんな閑日月のあるのを知るまい。自分もそうであったから。
6月1日 雨。午前七時十分整列、鳳凰城の西北方約四里ばかりの四台子に至り前哨本隊となりしが、雨天のため上と下から湿れる道は悪くなる。実に閉口した。本日は五月の一日を記念するため清酒各人に一合ずつ給せられた。
6月4日 快晴。午前は武器の手入れをして暮らし、午後は小隊長たる荒島少尉が遊びに来られたのでお話し相手を仕り、雑誌などを読んだ。・・・
6月14日 ・・・午後〇時より夏衣袴の服合わせあり。夏襦袢を渡された。その後自分は鳳凰城へ買い物に行った。
6月15日 曇。午前中洗濯をしたり、山の麓に土俵を築き相撲を取った。・・・
7月20日 曇り・・・敵の死体はそのままとなり、三々五々畑の中に散乱している。雨にさらされ日に照らされ、その腐敗したる臭気はふんぷんとして鼻を突き、彼我の帽子、銃床の折れ、服の切れ等、実にその戦闘のごとなりしかを察せられる。・・・吾々も暑い時に三日間紅軍の疲れを休める時間もなく前哨となり、三昼夜の幕営に体は疲労を増すばかり、それだのに炊爨をするにも水筒に一本の水を得るにも五、六百メートルの山道を上下せねばならぬ。それで朝飯が済むとただちに明日の昼食までの用意をしてるのである。兵卒の身では実に困苦欠乏に耐えざるものがある。
7月26日 曇りの晴。雨の止むのを待って飯の用意をしたが、白米が水のために褐色の飯ができた。・・・午後八時に引き上げ・・・中隊で土人より芋と塩を買って各々に給せられ、明日の朝食にせよと、とうてい芋のみにては運動する身は凌ぎきれず、畑の中を捜索して葱を見受け、芋と混ぜて塩煮にし、黄洞溝まで引き上げ午前二時頃にようやく宿営した。どうして寝たか判らなかった。
8月25日 快晴。・・・攻撃の計画を話されて注意を与えられた。それは弓張嶺夜襲のことで出発準備に取りかかった。午後六時に歩兵第十五旅団は前哨線の畑地に集合し始めた。そして月の出を待ったが、この間各将卒共に意気投合する連中は三々五々団を作って、あるいは談じあるいは謡いまた笑い、数時間の後には大修羅場を演じ阿鼻叫喚切りつ切られつするのであるが、それを知らぬごとくいと愉快そうに見受けたが、これでなくては戦に勝てまい。
8月26日 曇雨。午前二時には各隊とも弓張嶺の麓に展開をおわり部処が定まったので、もっとも静粛に登り始めた。・・・我が勢いには敵すべくもなく午前六時頃にはまったく占領しおわり、・・・午後六時頃に山麓の人家に警急舎営したが、中隊で一軒の家しかないので武装したまま立ち往生、それはよいが午後三時頃から雨が降りはじめたので炊爨の水、飲料水に不足を告げたので大いに苦しめられ、トウモロコシを追ってきて焚火に焼き夕食に代えた。
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