公式戦史から歩兵第27連隊の動きを読む(1) ~12月1日

参謀本部編の明治卅七八年日露戦史. 第6巻 9 旅順要塞ノ攻略 から、歩兵第27連隊の動きを拾ってみる。
まずは12月1日まで

  • 第7師団は11月11日に第三軍の戦闘序列に入り、19日に主力が大連上陸
  • ただし当面は総予備隊として、203高地から少し離れた曹家屯に宿営
  • 11月28日、第26連隊は第1師団令下となる。他は曹家屯に留まる。
  • 11月29日
    • いよいよ第27連隊も203高地へ向かう。
      • ただし第1大隊は予備隊として曹家屯に残る
      • 金カムメンバーが第1大隊だと物語進まないので、第2・3大隊としましょう
      • AM5:15発、9:30に標高164高地西北の谷地に開進おわる
    • PM1:45、翌30日の攻撃命令下る
      • ここでなお、歩兵第27連隊は予備隊になる
    • 他の隊は、隊伍を整え位置につき鉄条網を破るなどなど夜中まで活動
  • 11月30日
    • 朝から攻撃開始した歩兵第28連隊(村上大佐)が苦戦し、友安少将に増援を要請する
ここでついに歩兵第27連隊が戦闘に加わります。
  • 第2大隊が203西北高地へ向かう
    • 第5・第6中隊が村上大佐の令下につく
  • 第28連隊+第5・6中隊がついに山頂の散兵壕に達する
    • しかし山の反対側10メートルの距離から銃火・手榴弾などを浴び、さらなる増援を要請する
  • PM6:30、師団長、第14旅団長に第3大隊と工兵第7大隊を率いて203高地へ向かわせる
    • PM11時過ぎ、203西北麓に着。
  • PM10:30、第2大隊第7中隊が増援に出る
    • 山頂の村上隊に辿りつき、大佐の指揮で戦うも
    • ”村上大佐の率いる諸隊を合し残兵400余りに過ぎず。殊に将校の全部死傷し村上大佐みずから兵卒を指揮するに至れり。”という惨状に
      • この第28連隊は第2大隊が別行動なので、600~2000名
        それに3中隊の600名余りが加わって、本来1200~2600名のところ
        残兵400ということです。
  • このあと、第3大隊の各中隊、第1大隊の一分中隊も、順次村上隊の増援に投入され、山頂を奪ったり逆襲されたりが、夜中2時過ぎまで続きますが、散兵壕内から手榴弾等で攻撃してくるロシア軍にジリジリ押され、半分ほどに減ってしまった兵卒が
    斜面の死角に伏せて耐えるだけの状況になります
  • 夜が明けたら到底持ちこたえられないと判断し、朝4時ころ撤退し攻路内に避難
  • 隊伍を立て直しつつ、工兵が攻路を広げるのを待つことに

簡単に時系列を図にすると

上記の戦闘経過を時系列の図にしてみました。
11月30日の16時から翌朝4時頃まで、中隊単位で順次203高地の東北部、村上隊の増援に投入されているのがわかります。
(第12中隊は西南方面の香月隊へ。第1・第2中隊はこの時点までは予備)
標高203メートル、ハイキングなら30分くらいで登れるでしょうか、展望台が作られるくらいの小山のそこここに、コンクリートで固めた保塁があり、ロシア兵がその中で機関銃を構えている、そんな所に小銃を握りしめて駆け上っていく・・・本当にほかの作戦はなかったのでしょうか。その圧倒的に不利な状況を変えないまま、新しい兵士を送り込んでも死ぬに決まっているのに。
歩兵第27連隊の、11月26日から12月6日の死傷者数は、将兵あわせて1,151名。
30日に村上隊で戦ったのが9中隊、1,400から1,800名というところでしょうか。
2日以降の動きも確認しないといけませんが、この12時間あまりで、そのほとんどが死傷したと考えてよさそうです。
2月の開戦から9ヶ月は動員されず、11月半ばに派兵されたあともずっと予備隊で待機していた歩兵第27連隊、他師団の苦戦・惨状を伝え聞いて、血気に逸る者も、不安を募らせる者もいたでしょう。
そしてついに戦場へ駆り出され、即座に半数以上が死傷するというのは、いったいどのような体験だったのか。死んでしまったら体験にもならず。言葉がありません。

ゴールデンカムイに関して

上図のように、歩兵第27連隊は中隊単位で順次出動しているので、連隊旗手がどこにいたのか、軍事知識のない私にはさっぱりわかりません。勇作さん事件がこの日のことならば、その後に尾形を含む中隊が続いたはずなのですが。
第2大隊(第5~8中隊)は基本的に第1師団の村上大佐に指揮をゆだねていて、第14旅団長や第27連隊長自ら動くのは23時以降、第3大隊の出動時なので、そこに連隊旗手もいたのかな・・・くらいしか想像できません。詳しい方にコメントいただけたら嬉しいです。

以下、戦史の本文から抜粋

これより先午後4時、友安少将は第7師団長よりその予備隊たる歩兵第27連隊第2大隊を増加せられ、同大隊の203西北高地に到着するやその第5第6中隊《第5中隊長大尉、武川康輔これを指揮す》を村上大佐の令下に増加し同大佐はこのとき両中隊の来援せしにより相合して突撃しついに山頂の散兵壕に達し歩兵第28連隊(第3中隊および第2大隊欠)、同第27連隊第5第6中隊を併列してこれにより敵の残兵と戦い、同山中央鞍部に向いし歩兵第28連隊第3中隊および第2大隊《第6中隊は大隊に復帰す》は独断村上大佐の率いる部隊の右翼に列なりて突進しその一部鞍部に達せしも敵火猛烈にして■進するものなく、たちまち敵の奪還するところとなれり。
村上大佐は東北部山頂を略取するや機に乗じ速にその占領を堅固にせんと欲し、諸隊をして西南部山頂および老虎溝山に対し散兵壕の掘開に力めしむ。

しかれども我前面においては約10メートルを隔てて山頂背面散兵壕に隠れる敵に対し銃火、手榴弾、投石等により間断なく戦い、しかも我が手榴弾漸次欠乏しその補給困難なるに反し敵の手榴弾は極めて多く、かつその威力猛烈にしてほとんど争い■く、ために我が死傷ますます増加し、歩兵第28連隊第1大隊長少佐藤本専作戦死し、同27連隊第5中隊長武川大尉負傷し、その他将校以下死傷多く衆皆殊死して現位置を維持せりといえども状況すこぶる危機に瀕せしにより、村上大佐はこれを友安少将に報告するとともに増援兵の急派を請求せり。

時に午後10時30分なり。すなわち同少将は予備隊たる歩兵第27連隊第2大隊長少佐坂井源八に命じ第7中隊を率いこれに増援せしめ、同中隊は同山西北麓より進出し、斜面を登り始めると損害を受くることなく敵の中腹散兵壕に到着し、最前線の増援はなはだ急なるを知り、更に山頂の散兵壕に達し、村上大佐の指示により第一線の右翼に両中隊相合して漸次敵を逼迫せしも、たちまち背面散兵壕および掩蓋下より逆襲せる敵の投弾および老虎溝山の機関銃火によりほとんど全滅し、ついで夜半ごろ酒井少佐戦死し苦戦はなはだし。

このとき村上大佐の率いる諸隊を合し残兵400余りに過ぎず。

殊に将校の全部死傷し村上大佐みずから兵卒を指揮するに至れり。
これより先、第7師団長は午後6時30分ごろ南山坡山北麓の歩兵第14旅団長斉藤少将に明治、師団の予備隊たる歩兵第27連隊本部および第3大隊ならびに工兵第7大隊(第1・第2中隊の各1小隊欠)を指揮して203方面に進出し、要すればその若干を同山攻撃隊に増加するを許し、ついで9時さらに命令を下し、同少将の率いる諸隊を同山攻撃隊に増加せしむ。すなわち同少将は出発準備中第2の命令に接し9時40分諸隊を率い南山坡山北麓を発し、11時過ぎ203西北麓に到着し、友安少将に会せり。
当時同少将は予備隊として歩兵第27連隊第8中隊を有するに過ぎざりしも、いくらも無く村上大佐の請求に応じ該中隊を同大佐の令下に増加し、すでに手裡に一兵も有せず。しかも諸報告を総合すれば203、南山頂ともに我が兵突入せしも未だ占領確実ならず特に東北部山頂方面の状況甚だ危殆なるもののごとし。
すなわち斉藤少将は歩兵第27連隊長大佐奥田正忠に命じ、速やかに将校を差し遣わし第一線の現況を観察せしめ、同時30分ごろ我が兵山頂を占領せるも苦戦を極めつつあり増援を望む最も急にして村上大佐の所在不明なるを知り、次いで幾らもなく友安少将は同大佐より「我が兵東北部山頂を死守し敵兵少数なるも猛烈なる手榴弾を有するに反し、我が兵これを欠き、第一線の損害甚だ多し、速やかに新鋭なる舞台と手榴弾の送付とを請う」に逢い、ただちに歩兵第27連隊第9中隊をして赴援せしめ、同中隊は山麓より一列横隊となり斜面を攀登し山頂下3、40メートルの地に達し隊伍を整頓中、中隊長大尉龍岡六郎、村上大佐に会し戦況を知悉し、かつ同大佐の指示を受け直ちに麾下を率いいて山頂に向かい突進せり。
当時最前線の部隊は逐次兵員を失い敵の山頂散兵壕の直下に点々散在しわずかにその位置を保持せるに過ぎざりしも、同中隊の増加により勢いを得て相共に再び山頂に突進するや、敵兵猛烈に抗戦し忽て手榴弾および投石の混戦となれり。しかして敵は地利を占めかつ掩蓋下より応戦し、我は漸次悲境に陥り龍岡大尉以下将校みな死傷し下士卒の大半を失い残兵約30、漸次退却するに至れり。この間、連隊長奥田大佐は第12中隊の一部および工兵第7大隊第1中隊の1小隊をして■第一線に弾薬および手榴弾を補充せしめ、同大佐はしきりに第一線の状態を知らんとせしも夜暗くして果たさず。ただ状況すこぶる危殆なるを想察せるに過ぎず。
夜半過ぎにいたり友安少将より更に1中隊を村上大佐の令下に増加すべき命に接し、ただちに第3大隊長少佐真崎友吉をして第10中隊を率い救援せしめ、かつ■に増加せし第9中隊を併せ指揮せしむ。これにおいて同少佐は第10中隊とともに山頂および鞍部付近の火光を目標として漸次斜面を攀登す。
ときに弦月上りて漸次光明を加えしにより、先敵の中腹散兵壕に至りて停止し、爾後さらに前進してその大部はすでに破壊せる鉄条網の線を通過して山頂散兵壕に達し、微弱なる敵兵のあるを知り、第9中隊の残兵を糾合して前進し、ついに山頂を略取せり。
しかるに敵兵前方3、4メートルを隔つる掩蓋下より数多の手榴弾を投擲し損害多大なるも我が射弾は山頂凸稜の妨ぐるところとなり、ことごとく掩蓋上を跳飛して一つも敵を損なうあたわず。
いくらもなく敵兵逆襲し来り、我が兵死傷漸次増加し、同夜午前1時ころには第10中隊の現員すでに半数に減じ大隊長真崎少佐以下多く死傷し、状況すこぶる惨憺たり。
しかして友安少将は第10中隊の山頂を略取せし報に接するやただちにこれを欠く実にせんと欲し、歩兵第27連隊第11中隊を同地に急派し同時に同連隊第12中隊を西南部山頂に増加し、同少将の有する予備隊全く■きしも、このとき新たに歩兵第27連隊第3・第4中隊を増加せられたり。

このあたりで日付が変わって12月1日

しかして第11中隊は午前1時30分ころ山頂に至り、苦戦中の第10中隊に増援し漸次掩蓋下の敵を掃討せしも、2時ころに至り強大なる敵兵猛烈に逆襲し来たり奮闘約1時間第11中隊もまた将校以下ほとんど全滅し、遂に敵の撃退する所となり、ことごとく山頂下の斜面に伏臥するに至れり。
西南部山頂に増加せし第12中隊は2時過ぎ香月中佐の率いる部隊に合し、同中佐の命により第2線部隊となり、当時この方面の第一線部隊は西南部山頂の一角を保守せり。
友安少将は午前4時ころ、今なお東北部山頂の略取意の如くならざるを遺憾とし、さらに歩兵第27連隊第4中隊を同方面に増加し同連隊長奥田大佐は同中隊を率い、決然第一線に進出す。

当時、同連隊第2・第3大隊はすでに多大の損害を被り山頂下の死角に固著しその左方の歩兵第28連隊(第2大隊欠)もまた略同一の状況にして山頂ふたたび敵の有に帰す。
されども同大佐は歩兵第28連隊第12中隊の位置より旅順市街方向に向かい灯火を認め我が現在地のはなはだしく山頂に近接し、しかも前方に多数の敵兵あらざるが如きを見、すなわち同中隊と協力して更にひとたび突撃せんと欲し、第4中隊およびその付近にありし第10中隊の残兵を糾合してともに突撃せしむ。
すなわち各中隊は同時40分ころ、踊躍突撃し同時奥田大佐は友安少将に現状を報告し、かつ新鋭なる部隊の増派を請い、同少将はわずかにその手裡に残れる歩兵第27連隊第3中隊を挙げて増加するに決せり。しかるに奥田大佐の敢行せる突撃また遂に奏功せず。これに加え同大佐負傷しその他将校以下死傷算なく第3中隊来■せしも戦勢を挽回するあたわざるのみならず、損害多大にして残兵ふたたび死角内に固著するに至れり。時に天まさに明けんとす。
村上大佐は天明後に至らば敵の砲火のため現状を維持するあたわざるのみならず、残存せる我が将卒また進退窮まるにいたるべきを慮り、むしろ未明において後方に退避するにしかずとし、遂に諸隊をして攻路内に退却せしむ。
すなわち諸隊は午前6時ころ、第2攻撃陣地に■れる工兵第7大隊第1中隊(1小隊欠)の収容を受け、山麓の攻略に退けり。
これより先、工兵第7大隊(第1第2中隊の各1小隊欠)は、午後9時30分、南山坡山西北麓を発し、203西北麓の攻路に集合し、夜半ごろ我が略取せる第一線に陣地を構築すべき命を受け、大隊長佐藤少佐は我が突撃兵なお山頂下において奮闘し、山頂いまだ我が有に帰せざるを知り、却って第一線掩助の急なるを覚り、第1中隊の半小隊をもって2手榴弾班を編成して西南部山頂方面に増加し、大隊の全力をあげて同部に対する右攻路を掘進し、戦況の発展を待てり。

その後、4時過ぎに至り東北部山頂に対し突撃復行の企図あるを知り、第2中隊の1小隊をしてこれに協力せしめしも、該突撃ならず、共にほとんど全滅せり。
ついで5時頃、友安少将の命により第1中隊(1小隊半欠)を同胞面に派遣し、歩兵陣地の構築に着手し、天明ころ傷者続々山頂より来り、同陣地たちまち充填せしにより、さらに第2攻撃陣地に進出して一面同陣地を増築し、一面敵を射撃して退却し来る。
第一線部隊を収容し、友安、斉藤両少将また天明とともに同攻路に来り、極力隊伍の整頓を督せり。

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