『旭川第七師団』読書メモ
示村 貞夫著。郷土史家による私家版ということになるか、大変な労作。明治初期から第二次大戦後の解体までを扱ったなかで、金カムに関係ありそうなところのメモ。
第2章 屯田兵
- 明治23年ごろからは族籍を問わなくなる
- 当初は18~35歳男子、明治18年の条例で17~30歳、23年に17~25歳に変更
- 明治18年以降は独身者不可。家族はともに開墾稼働できることが条件の一つ
- 40歳が限度で、それ以後は子孫が世襲する規定
- 明治23年・27年・34年の改正を経て、現役5年・後備役15年となる
- 日清戦争のとき、臨時第七師団を編成(東京で待機中に終戦)
- その後、屯田兵は第七師団に隷属
- 明治33年からは募集中止、37年に廃止
- 約30年間で
- 37兵村、7337戸、39901人。歩兵6175人、騎・砲・工兵あわせて6588人
- 屯田兵には2万坪の土地のほか、家具什器・農具・扶助米・塩菜料が給与され、地租も免除された。
- 兵屋は17坪5合、杣葺平屋、間口5間・奥行3間半。半分が土間、あとは6畳2間と4畳半、勝手と便所。6畳間のひとつは板の間で炉がある。
- 西南の役で評価をあげる
第5章 第七師団の創設
- 北海道で徴兵は明治22年から行われていたが、仙台第二師団に属する青森歩兵第5連隊に入営していた
- 明治29年5月12日創設(屯田兵4大隊+騎・砲・工各1個隊)
- 明治35年まで増設、改編がつづく
- 明治33年、初代師団長の永山中将から大迫中将に代わる
- 土地買収は極秘裏に行われた(地価高騰を防ぐべく)
- 明治32年からの建設工事は総工費329万円あまり。
- ”現在の価格でおそらく100億円に達するものと推定されるが、当時の民度、貨幣価値等からいえば現在の1000億にも相当するものともいえよう”
- 俄然旭川は活況を呈し
- 多い時は8000人、少なくとも5000人の大工・職工・人夫を使用して突貫工事
- 全国から労働者が雲集、飲食店が乱立、白昼売春婦が袖を引く、終夜馬車の音が絶えない
- 陸軍省と大倉組との癒着、欠陥工事など連日報道されるもうやむやに
- "この新兵舎には電灯も水道もなかった"
- 電灯は明治35年1月、水道は大正3年3月から
- 師団通りなどは雨でぬかるむので丸太道
- 練兵場は森林を伐ったばかりの湿地、洪水のたび濁水が営内に侵入
- 近隣に熊出没
- 33年11月、札幌から旭川に兵が移ってきたが、兵舎も酒保もろくすっぽできあがっていなかった。
- 窓は一重、暖炉は燃えない小さなもの
- 車井戸のつるべ縄
- 大正元年に野砲兵第7連隊で勤務したオーストリアのレルヒ少佐手記より
- ”夜になれば・・・部屋の中の水も凍るし、瓶もコップもはじけてしまう。・・・冬でも早朝6時には、もうその日の生活がはじまる。・・・起床ラッパ・・・音がやむかやまないうちに、元気な当番兵が現れる。最初の仕事は、水を官舎へ運ぶため、井戸の氷割りである。"
- 明治34年12月1日入営の初年兵
- 第1師団管 1,200
- 第2師団管 449
- 第7師団管 876
- 明治35年12月の入営兵は以下から選抜された3677名
- 第1師団管 2,201
- 第2師団管 750
- 第8師団管 184
- 第7師団管 909
- "この兵員の内地師団(第1・2・8・13・14師団)依存の状態は、単に明治代のみならず、大正・昭和の各期を通じて行われてきた。
第7章 日露戦争
- 明治37年8月4日午前11時、動員下令
- 8月17日に野戦第7師団の編成完結
- 10月19日に出発予定(実際は26日)。
- 11月10日、師団長が大阪入り(兵卒はおそらく先行。待機)
- 13日から3日間にわたり、出航
- 18日から21日にかけて大連に入港、上陸
- 戦闘部隊以外(兵站含む)は28日から12月2日にかけて上陸
- 26日から一部部隊は戦闘参加、28日になって師団として投入される
- 12月5日攻撃にむけた編成
- 203攻撃隊長 斎藤太郎少将(歩兵第14旅団長)
- 歩兵第27連隊(集成3個中隊) 約700名
- 歩兵第28連隊(同上) 約900名
- 歩兵第25連隊第1大隊 822名
- 歩兵第15連隊第2大隊(第1師団)
- 後備歩兵第16連隊第1大隊
- 近衛工兵大隊の1個中隊
- 工兵第6大隊第2中隊
- 工兵第7大隊
- 工兵第8大隊の1個中隊
- (合計) 約4,500名
- "この編成表でも分かるとおり、諸隊混交し、その実勢は歩兵2個連隊にも及ばなかった。またでき得る限りの工兵を集め、投弾班と工事班に編成して歩兵部隊の戦闘に配置した。
- 旅順攻略戦における第7師団の損害は戦死2,081、戦傷4,676
- 12月6日、大山総司令官から第7師団へ感状授与
- 北進
- 馬匹の氷上装蹄に、ひじょうな苦労
- 1月12日から歩兵第14旅団(歩兵第28連隊欠)が出発。歩兵第27連隊も出発。主力は1月22日に旅順を発つ。
- 北陵の戦い
- 3月9日、10日に激しい戦闘
- "3月10日午前4時30分。村上右翼隊は、三線に分れて北陵森林地帯に突入した。折から暁暗に加えるに鬱蒼たる森林内、諸隊の連繋は困難をきわめ林内各所で紛戦、混戦となった。歩兵は独立して所在の敵と不規に戦闘を交えたが、10歩以上の見透しもでき得なかった。村上大佐は第3線と共に林内に突入したが、手許の各隊は銃声を求めて林内に分け入ったため、大佐に随う者は2、3名の伝令にすぎなかった。この時、付近にひそんだ数十の敵の射撃を受け、村上大佐は重傷を負って人事不省に陥った"
- 奉天会戦での第7師団は、戦死1,061、戦傷3,546。
- 奉天会戦後
- 新台子停車場方面から石仏寺にいたる間に駐屯
- 4月上旬は後史家堡~法庫門、五月上旬は平安堡~恒道子の線に展開して駐留
- この間に各種伝染病、とくに腸チフスが多発。脚気も多かった。
- 停戦から凱旋
- 9月16日に停戦協定が成立するも諸隊は現地に留まり越冬
- 明治39年1月15日、第3軍司令部は東京へ凱旋
- 第七師団の凱旋は2月下旬から開始
- 3月4日、歩兵第25連隊本部と乗馬歩兵が札幌着。騎兵第7連隊第1中隊が旭川へ
- 以降3月14日まで連日凱旋。
- 出征以来の補充は18回におよぶ。
- アイヌ兵
- 北風磯吉予備役上等兵
- 明治13年6月生まれ。名寄出身。
- 33年入営、36年除隊。睡眠時間を割いて勉強し読み書き習得。
- 歩兵第25連隊の一等卒として日露戦争へ。
- 11月26日の白襷隊にも選ばれ、敢闘する。退却時、負傷した中隊長を背負う。
- 鐘馗様のような虎ヒゲ
- 3月3日、ロシア軍に包囲された大隊から本部への伝令(弾薬補給・増援の要請)に選ばれ、2時間後に連隊本部へ到達。連隊長により即時上等兵に昇進させられる。ふたたび敵弾の中を大隊に戻る。
- 勲8等、功7級金鵄勲章
- 凱旋にあたり名寄小学校の生徒一同に学用品を配る
- 宮北秀吉氏の回顧
- (203高地占領後の戦闘期間)
- 200人ずつ交替で、夜6時から朝6時まで、1人当たり南京袋20個ずつの土嚢づくり。敵前200メートル。
- 「堀りかけると敵が必ず撃ち出すから、まず大急ぎで1袋作って、弾が来たらその陰に伏せろ」
- 真夜中になると敵も疲れ・・・この間に一心にやった
- 敵の咳込む声が聞こえてきた
- 飯はバラバラな麦飯
- 水は1滴もなく顔も洗わず手も拭かず、付近には露兵の死体が何百
- 壮健兵は師団でわずか1200人というありさま、結局働くのは新たにきた補充兵
- (北進)
- 旅順奉天間180里、まさに血と汗と涙の強行軍
- 銃は背嚢の上に横に縛りつけて、1日10里、11里ずつ割り当て、最初だけは1日行って1日休んだが、次からは4日目に1日休憩ということになった
- 野戦演習「躍進前へ!躍進前へ!」
コメント
コメントを投稿