『血烟』から歩兵第27連隊の動きを探る

日露戦争に 第七師団 歩兵第27連隊 補充大隊 で従軍した安川中尉の軍記『血烟』を手に入れたので、歩兵第27連隊の動きを抜粋してみたい。

ゴールデンカムイのメンバーは現役兵でないとパッとしないと思うので、補充大隊の安川氏とは違う大隊だろうが、少なくとも連隊まで同じなので、おおむね似た経過と思われる。

『血煙』安川隆治 著、明治44年12月24日 東亜堂書房発行。手元にあるのは明治45年1月11日の13版。相当に売れたものらしい。なにしろ大隈重信、斉藤大将、牛山少将、竹迫大佐の序文付である。

安川氏は一年志願兵として明治34年に入営、軍曹で満期除隊、翌年の勤務演習時に曹長・見習士官となる。将校試験に主席合格して少尉。日露戦争では中隊長代理を務め、奉天で負傷するまで前線に立つ。戦後中尉に昇進。早稲田大学卒(時系列わからず)。その後は実業家として成功した模様。なんとも立派な人物であります。

明治37年

・8月4日 第七師団に動員下令
・10月末から1ヶ月くらいかけて第七師団の各隊が出征。歩兵第27連隊は10月27日発。

11月

安川氏らの予備大隊は北海道から動かず。
その間、第27連隊の他の隊はすでに旅順攻略に参加していた。
  • 30日 海鼠山から203高地へ移動、23時より盤龍山のH砲台を攻撃(第1・2中隊が突撃、第3・4中隊は予備)。
  • 29日 第14旅団長配下で、第27・28連隊は右翼攻撃隊となる
  • 30日 22時より攻撃。西北角の保塁線を奪取するも翌1時に逆襲され撤退
  • 31日 19時、出動。行路は死傷者に埋まる。第7・8中隊とくに酷。第3大隊退却。

12月

  • 1〜4日 休戦。死体収容。
  • 5日 第27・28連隊から90名ずつの6区画+第25連隊からの30名にそれぞれ工兵をつけ、西南角から攻撃。未明より砲撃、7時突撃し占領。
  • 17日 3時より高丁山を攻撃。28連隊は正面。占領。
  • 24日まで高丁山の守備、その後、赤坂山の守備
  • 27日 安川氏ら補充大隊が到着。この間、坑路作業続く。
 ちなみに安川氏らの足取りは:
  • 11日 出征。13日に青森、17日に宇都宮、以降 赤羽、梅田、神戸、広島
  • 21日 宇品港発。船酔多数。大連湾に上陸、柳樹屯のロシア人街に泊まる
  • 25日 早朝、旅順へ行軍開始。大清塞子に泊、営城子に泊、双台溝・土城子を経て潘家屯に着。老鉄山より砲弾着あり。
  • 27日 夜、203高地着

明治38年

1月

  • 2日 払暁、戦闘中止令
  • 3日〜 捕虜を監護送
  • 11日 6時 北進開始
  • 13日 23時 長嶺子の停車場より鉄道輸送(無蓋貨車、糧食は重焼パンのみ、凍傷・凍死の危険)、大石橋から再び行軍
  • 14日 14時ころ營口着。16:15 警戒行軍を再開。脱落者多数。第3大隊の本部と第12中隊は虎樟屯、第9中隊は西糧窩を目指す。
    15日 6:20着。防御工事と偵察。20日まで守備。
  • (30日の旅順入城式には残留組が参加)
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服装について
冬装束の上に軍服、茶褐色のメリヤスの上下をかぶり、防寒毛布のチョッキ、メリヤスの覆面頭巾、攻撃時は茶褐色の背負袋、靴下は2・3枚重ね
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2月

  • 3日 新年の爆竹騒ぎに驚く 
  • 12日 周正堡を経て20日に七公台着。小北河方面への前哨。第7回の補充あり。「殊に旅順では徹頭徹尾、幕営であったから」痛みの激しい天幕の下で「しかし誰も彼も皆よく眠っている
  • 26日 恩賜品とどく
  • 27日 奉天の会戦へ。第三軍を4縦隊とす(東から順に、第七師団は第3縦隊。27連隊は本体の先頭)。昨日来の雪を踏んで太子河、渾河を超える
  • 28日 阿子牛、教司牛付近で少数の敵に遭遇し圧勝。壁家窩棚に宿営。

3月

  • 1日 光山子、頼家堡子を経て13:30孤家子着。
    • 第28連隊は攻撃開始。歩兵のみの日本軍に対しロシア軍の砲撃による惨状。
    • 第27連隊は総予備隊として火石崗子に宿営。
  • 3日 黄昏、第二次迂回命令
  • 4日 払暁より迂回運動開始。
    • 第七師団の目標は北陵。
    • 第27連隊は師団の前衛。姚家屯付近で、李官堡の高地より砲撃される。
    • 第11中隊は李官堡南方から前進
    • 前兵(第3大隊)は西丁香屯へ急進
    • 第1・2大隊は李官堡の勁敵にあたる。敵前800mで日没
  • 5日 前日のつづき。
    • 第3大隊は小集屯方面の敵と対戦。
    • 第9中隊は第12中隊の援護へ。(p.262)。
    • 昼食中にコサック騎兵50~60現る。4~5m間隔に散開し、双方徒歩戦。600mで撃ち始め、敵方8・9名死傷したところでロシアの砲撃にあい逃げ帰る。
    • 夜、1個小隊で偵察し、敵の大縦隊が北進していることに気づく。
  • 6日 3時、第27連隊は北方の大石橋付近へ。第3大隊は劉家窩棚と長家堡子、第1大体は岔台を攻撃。夜、北進・転換。
    • 我が連隊中、ことに第3大隊は十数倍の大敵に対してほとんど全滅に瀕し (p.274~)
    • 夜明け頃から4時間にわたって戦闘
    • 安川氏、左手貫通傷、右脚、右腰も負傷しつつ戦うが、頭部貫通傷をうけ後方へ
    • 1500m後退
    • 看護兵も倒れ、大隊に看護手1人のみ残るありさま
    • 増援に来る途中の第8中隊も砲撃により瀕死
    • 17:30 第25連隊の一部&砲兵の増援により敵襲おさまる
  • 6日 第3大隊の将校、死亡6、負傷6。
    • 第9中隊は特務曹長以上、みな死傷。俳優の八木上等兵(203高地の決死隊でもあった)、重症の泉中尉を助け出す殊勲。
  • 7日 第3大隊は岔台、劉家窩棚の援護にまわり、転湾橋を占領
  • 8日 小集屯を攻撃。
    • "一時、戦線の統一を欠くに至り"・・・ようやく砲兵の攻撃開始。
    • 決死隊による夜襲は中止された。 
  • 9日 小集屯を第9師団にまかせ、北陵を目指す。
    • 左翼縦隊を援護するため四台子へ。折からの砂嵐に紛れ。 
  • 10日 引き続き北進・先頭するも、ロシア軍が退却を始める。
    • 9・10日の第27連隊の将校、戦死6・負傷14
    • 七公台を出て一旬
    • 戦い続けて8昼夜
    • 米飯なし5日
    • 睡眠なし3日
    • その奇怪なる風貌は鬼の如く夜叉の如き 

奉天会戦ののち

安川氏は戦線を離れたので『ある歩兵の日露戦争従軍日記』から推測。
3月10日にロシア軍が奉天を去ってから、5・6月頃までは散発的に小戦闘もあったようだが、基本的にはあまりすることもなく待機。だんだんに平時のように演習したり、宴会場を作ってみたり。
9月に講和の報せがあっても「またか」と思われるほど、帰国のデマが飛び交っていた。
結局、全軍の復員が完了するのは翌年3月。

・・・明治38年に入営した新兵たちの最初の訓練(3ヶ月?4ヶ月?)は内地だと思いますが、4月か5月に中国へ送り込まれたのでしょうか?

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未完成。見つからない地名が結構多い・・・公式戦記もあたってみよう。

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