公式戦史から歩兵第27連隊の動きを読む(2) ~12月2日から4日

(出典:『明治卅七八年日露戦史. 第6巻 9 旅順要塞ノ攻略』 コマ番号293~298)

1日の攻撃の結果、死傷あまりに多く、また第1師団と第7師団の指揮系統や配置が入り乱れてしまったので、2日から4日は人員配置の整頓と作戦の立て直しが行われたようです。
ただし
諸部隊の混淆はなただしきが故にまずこれを整頓せんとし、第1第7師団の攻撃地区を区分し第7師団をもって依然203の攻撃に任じ、第1師団をして極力これを援助せしめ、各師団の諸部隊をして全然その固有の所属に復帰せしめんとせば多大の時日を要し時機に適せざるがゆえにおおむね現在の配置に従いしばらくその地区の指揮官に隷属せしむることとし
本来の所属に戻すのはあまりに大変なので、おおむね今いるところの指揮官に従うことになりました。

休戦は第三軍全体ではなくて、各師団の各戦線で個別に協定されたのですね。 協定が成立しなかったところもあるし、
第9師団方面は状況変化なくこの日盤龍山東保塁前攻路頸付近における彼我中間地区の死体収容のため敵と一局部の休戦を協定し、ともに死体を収容し午後5時これを終われり。同時二龍山保塁方面にありても敵兵死体の収容を促せしも我が作業隊すでに外壕内に坑進作業を開始遷都し際なりしがゆえについに応ぜず。
部分的な戦闘はこの間もありました。

尾形のあれ、休戦協定違反だったらやばくない?って心配してたんですけど大丈夫そう。
3日、203西南部山頂一角の我が陣地は午前5時30分ころ白玉山西方の敵艦より射撃を受け、夜来築設せる観測所ならびに攻路の大部破壊し、7時過ぎにいたり敵兵5,60山頂の掩蓋下より逆襲しきたり当時該陣地の守備に任ぜし歩兵第25連隊第1中隊および第3中隊の一小隊まずこれに当たり、ついで第3攻撃陣地にありし同連隊第2中隊その左右に増加し約20分にしてこれを撃退せり。 

4日の第七師団 

4日、第7師団方面一般の状況、前日と異なることなくこの間時々第一線諸隊を交替し工兵並びに予備隊の歩兵は交互に攻撃作業に任じ、あるいは材料の整備に従事す。しかして諸材料の集積、配布、部隊の整頓等おおいに進捗し203西南部山頂一角の我が拠点ようやく堅固となれるも概して第一線の工事は地質硬くかつ敵の防碍に遭いて速やかに進捗せず。とくに観測所はこの日敵火の破壊するところとなりしも夜に入り状況静穏となり諸般の作業ようやく進捗し、前日■■溝付近に来着せる騎兵第7連隊(第2中隊の三小隊欠)は師団命令により張家屯、王家旬子付近に至り、右側警戒の任に就き、第11師団より増加せる機関砲4門到着し各2門を203および老虎溝山両攻撃隊に配備せり

5日の攻撃体制

4日午後2時、第7師団長が5日の攻撃命令を下します。歩兵第27連隊は203攻撃隊。集成しても三中隊しか作れない惨状がうかがわれます。
一、203攻撃隊(長少将斎藤太郎、歩兵27連隊(集成三中隊)、同第28連隊(集成三中隊)、同第25連隊第1大隊、同第15連隊第3大隊(第11第12中隊欠)、同第3連隊第11中隊、後備歩兵第16連隊第1大隊(第1中隊欠)、近衛工兵第1中隊(■小隊欠)、工兵第6大隊第2中隊(一小隊欠)、同略7大隊、同第8大隊第1中隊、機関砲2門)は午前9時までに203突撃の準備を完了し機を見て突撃す

これを受けて、203攻撃隊長が午後8時に下した命令。歩兵第27連隊は、選抜隊90名/集成第3中隊が村上大佐率いる攻撃隊に入り、集成第1第2中隊は予備隊(とはいっても山頂から300mだから、いつでも突撃できる位置)。尾形ほか金カムメンバーはどっちにいたんでしょうねぇ。
203攻撃隊長斉藤少将は、師団命令にもとづき翌5日午前9時以後、機に乗じ西南部山頂を奪取せんと欲し、この日午後8時命令を下し左の部署をなせり
 一、歩兵第28連隊長村上大佐は選抜隊3隊(歩兵第25連隊より将校の指揮する下士以下30の一隊、同第27第28両連隊より同下士以下90の各一隊)、歩兵第27連隊集成第3中隊(第3大隊の総員をもって集成せし中隊にして当時西南部山頂の一角を守備せり)、および工兵第7大隊の混成一小隊を併せ指揮し5日午前8時までに203西南部山頂の西方斜面に集合し9時以降随時突撃しうる如く準備す
《中略》
 五.自徐の諸隊は予備隊となり午前8時までにその歩兵第28連隊集成第2大3中隊、同第27連隊集成第1第2中隊、工兵第7大隊は203西南部山頂の西北約300mの谷地に、歩兵第25連隊第1大隊、後備歩兵第16連隊第1大隊(第1中隊欠)、近衛工兵第1中隊の2小隊半および工兵第6大隊第2中隊(1小隊欠)は同山西北高地に位置せしむ。ただし工兵隊は払暁までに予定の作業を終わりたる後、指定の位置に就く。

同第27連隊集成第1第2中隊、工兵第7大隊は203西南部山頂の西北約300mの谷地
ここに尾形のあれとか、尾形と勇作さんのあれとかの気配を感じます!どうだろう?!

5日の攻撃(前半)

5日全体はまだ読めていないのですが、攻撃隊が203山頂を奪取したところだけ載せておきます。
ついに奪取はしたものの、300から400名はいたはずの将兵が「死傷多大にして総兵力約40名に過ぎず、しかもことごとく散兵壕内に伏臥して・・・身を起こすあたわざるの状況」。金カムの歩兵第27連隊メンバーがみなこの攻撃隊にいたとは生存率から考えにくいので、誰々がいたのか気になります。
203攻撃隊は午前8時ころまでに各攻撃準備の配置に就き、村上大佐は歩兵第27および第28連隊の両選抜隊を第一線に併列し、同第25連隊の選抜隊を第2線とし、工兵第7大隊の混成1小隊を3手榴弾班に分ち、その各1班を各選抜隊に属し、9時15分、我が砲撃の成果大にあがるを見、同山西南部山頂に向かい突撃を命ぜり。
しかして各選抜隊の突撃に移るや、敵兵小銃火および手榴弾をもって抵抗せしも、各選抜隊はこれを排して遂に山頂の散兵壕に突入せり。
しかれども、死傷者甚だしきがゆえに村上大佐は歩兵第27連隊集成第3中隊をして続きて突進せしめ、同中隊もまた損害をおかし、ついに山頂に達するを得たり。これにおいて斎藤少将は、その予備隊たる歩兵第28連隊集成第2・第3中隊ならびに工兵第7大隊の一部を村上大佐に増加し、極力山頂の支持につとめしむ。
当時該山頂にありては、我が将校以下死傷多大にして総兵力約40名に過ぎず、しかもことごとく散兵壕内に伏臥して東北部山頂および滕家大山よりの銃火ならびに太陽溝および椅子山方面よりの砲火に対し、身を起こすあたわざるの状況にあり。すなわち工兵第7大隊の混成小隊長大隊副官中尉今川済は、現在せる諸兵を指揮し極力防禦工事に努力せり。

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