第七師団・第27連隊の死傷者、弾薬損耗数

従軍日記を2冊、書簡集を2冊読んで思うのは、従軍体験というのは所属部隊によって相当違うということ。全体としては激戦の日でも、所属中隊が予備隊であれば特になにごともなく過ぎるかもしれない。負傷や疾病で病院と戦場をいったりきたり、戦闘はほとんど体験せず、という人もいる。

そこで、参謀本部による日露戦史(以降「公式戦史」)から、第七師団および歩兵第27連隊の死傷者数・弾薬損耗数をとりだし、歩兵第27連隊の足取りを追ってみた。

参考資料:
明治卅七八年日露戦史. 第6巻 9 旅順要塞ノ攻略
明治卅七八年日露戦史. 第9巻 11 奉天附近ノ会戦





  • 黄色は、第7師団全体に対して歩兵第27連隊の死傷者数・弾薬損耗数(小銃弾のみ。砲弾は含まない)が20%を超えている箇所。
  • 旅順攻略の日別の記録は見つからなかった。
  • 1/3~2/26 は記録が見つからなかった。この間の第7師団は、旅順で捕虜監護送、旅順の守備、欠員補充、奉天を目指して北進という活動内容で、死傷者数はゼロではないにしても、多くはなかっただろう。

私は軍事に無知なうえに公式戦史の本文は未読であって、この数字で何かを判断するのはどうかと思うが、そう言っても始まらないので感想を述べる。
  • 歩兵第27連隊の日露戦争体験は、旅順攻略の11月30日、12月5日、奉天会戦の3月4日・6日・9日・10日がピーク
  • とくに3月6日と3月10日は、それぞれ195人・96人の兵卒が死亡する、最大の激戦であった
  • 3月10日にはロシア軍がすでに撤退を決めている一方での死傷であり残念至極
  • 旅順ですでに死亡425名・負傷726名。
    • 負傷から死亡にダブルカウントされるのか、負傷のうち戦線を離れたのがどれくらいか分からないが、ざっと半分ほども補充を要する状態だったと推測する
    • つまり、奉天へ向かったとき、旅順経験者と新顔が半々
  • 全期間で807名の士卒が死亡している。
    • 連隊の定員は未確認だが1000~1200、旅順ののち500名補充されたとすると1500~1700名中の800名余りなので、2人に1人が死亡という惨状。
    • しかしその死亡率も当連隊が突出しているわけではない
  • それ以外の日々は、師団のなかでも比較すれば平和なグループだったのではないか
  • 弾薬損耗数が割にすくない。無駄弾を撃たない集団だったのか、補充が間に合わなかったのか(総軍のはずれを進んでいるから)
10月末に北海道を発って3週間ほどで旅順到着し海鼠山で待機……11月30日になって戦闘に駆り出され即日大勢が死亡、休戦後の12月5日も激しい戦闘(これは勝利に終わる)。1ヶ月ほど旅順に留まり、徒歩と鉄道で400kmあまり行軍(7週間くらい)、3月4日から10日の奉天包囲戦で再び隊のほとんどが死傷。それから9月の講和、12月末の復員まで長い長い宿営。 ひたすら歩き歩哨に立ち無聊と寒さと飢えに耐える日々から唐突に激戦に放り込まれる。想像力が追い付かない。

鶴見中尉の金塊探しメンバーも、旅順からずっといる人は半分くらいなのだろうか。明治38・39年の新兵は含まれているのだろうか。・・・そんなこと言いだすと、小隊?中隊?の自由すぎる行動を上司にはどう説明してるのかって話だけど。淀川大佐が握り込んでるのかね。花沢中将の後任師団長は何者だろうかね。

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