半藤一利『日露戦争史』

事実と人情とバランスよく、迫力ある臨場感で記述された名著だと思います。全体としてどのような戦争だったのか腹に落ちる。以下、印象に残った箇所の抜粋。

2巻

第11章 旅順やっと陥落す

ついでに伊藤軍令部長あてにも、児玉はがぜん尻をまくってみせた。
「海軍は、バルチック艦隊を迎え撃つために、内地の造船所で艦艇の修理をしなければならないというが、全艦艇を一時に修理する能力なんてないはずだ。当然、交代で修理せねばならぬ。それなのに全艦艇を引き上げるというのは、陸軍にたいするいたずらな強要である。なぜに海軍はいまだ現れぬバルチック艦隊に怯えて陸軍作戦にまで干渉するや」
これには海軍中央がカンカンになった。伊集院軍司令部次長の名義をもって十八日、児玉総参謀長あての猛烈な抗議電報が遼陽に叩きつけられる。
「一月上旬をもって旅順艦隊の戦闘力を奪うというが如きは、時機すでに去るものにして、いまだもって目下の最大急務を充たすに足らざるものなり」
児玉は喧嘩となれば大枚をはたいて買ってでもでたい性分。(p.336)

ここを、読むとやはりそのときの乃木大将の心事をわがものとふりかえて、深く同情せざるを得なくなってくる。東京の留守宅には、あるいは投石し、あるいは罵詈雑言を投げかける民草の数知れず、「われわれが兵隊をつくってやれば、端から殺してしまいおって」(p.343)


「兵の旅順攻撃を評する語に曰く、ラッキョウの皮剥きなりと。《中略》「二十六日来入院数一千四百名、現在七十七名(内七名内科)、帰隊二百三十、自傷八十、このほか自傷にてみずから帰隊を希望し帰隊せるもの十名余あり、帰隊のうちに含めるをもって実際の自傷は九十名内外!!」(p.344)

山県総長は・・・「なぜ、また二十六日に総攻撃開始なるや」・・・その返答が・・・思わずポカンと開いた口が塞がらなくなる。
「二、南山攻撃の突破は、じつに二十六日なりしをもって、第三軍将卒はこの縁起を祝う。
三、偶数は割り切れる意味において兵卒は歓ぶ」
前澤氏は、部下の感情を重くみて決定というのは常軌を逸した責任転嫁であるといい、「このような無能な軍司令部の命令で攻撃を続行しなければならなかった将兵こそ悲惨である」と慨嘆している。まったく同感というほかはない。(p.348)

以下、各師団の各突撃隊もまた然りで、かくに忍びないので省略する。それにしても攻撃正面にだけ砲撃を加え、それから歩兵の白兵突撃を繰り返し、周囲からの大反撃をうけ屍山血河という石頭の一徹ぶりには、評するに言葉がない。(p.350)


[12月1日のこと]児玉総参謀長は、第三軍参謀たちの集合を・・・びしびしと叱りつける用に攻撃計画の変更を指示する。・・・このときの児玉総参謀長はまことに運がよくツキに恵まれていたようである。(p.370)

「旅順の要塞はヨーロッパの多くの新聞が、難攻不落とほめたたえたものである。軍事評論家は一つの旅順は六つのセヴァストポーリにひとしいと主張した。英仏の連合軍でさえセヴァストポーリの占領に一年間かかったが、日本は、弱小で今まで軽蔑されていた日本は、八か月でこの要塞を占領したのである。この軍事的打撃は取り返しのつかないものである・・・ウラジミール・レーニン「旅順陥落」の一節である。(p.396)

歩兵第一連隊の猪熊少尉が手記『鉄血』にかいている。
「海鼠山の攻撃でまた三百名の死傷を生じ、それからもほとんど連日負傷のために幾人か後送されぬ日はないので、連隊は今や定員の三分の一にもみたなくなってしまった。ようやく九月二十七日に至って二百五十名、十一月二十日に至って四百名の補充兵が到着して・・・海鼠山で負傷し、わずか二ヶ月を過ぎたばかりで、またもや海鼠山に補充に来るとは (p.398)

3巻

第12章 「血の日曜日」と黒溝台

さらにもう一言、電令のなかに小村のいい言葉が残されている。
「歴史はつねにわれに将来平和政策の必要を教うるものなり」
今日にそのまま通じる美しい言葉である。日本国は平和政策を第一とすべきなのである。昔も今も。(p.21)


旅順陥落の快報が、あっという間に乃木と第三軍司令部の無能無策を謗る民草の合唱を消し去ってしまう。そればかりではない、さながらその反動のようにして、この屍山血河の作戦で二人の愛息を戦死させた悲哀を背負った悲劇の名将として、つぎからつぎへと報じられることで、乃木は華々しく脚光を浴びるようになる。・・・
・・・とにかくあまりにも多くの戦死者をだしすぎた。とうてい誤魔化せることでない上に、雑誌『太陽』一月号に掲載された大塚楠緒子なる歌人の「お百度詣」という詩が折から話題をよんでしまったのである。(p.22)

本音をいえば、できることなら作戦指導に欠陥のあった第三軍司令部の全員を内地に帰還させて、総解体したかったのである。軍司令官、参謀長、主なる参謀を「ご苦労でした」の一言をもって解任する。そして新たに軍司令部を編成して、奉天戦に間に合わせたい、とする案が実はひそかに用意されていたのである。
その案に満州軍総参謀長児玉大将もすでに乗っていた。・・・ 参謀松川少将が必死になって止めた。もしそんなことをすれば、乃木軍司令官の失態は日本国民に明らかとなり、第三軍の将兵の士気を最低にまで低下させる、と松川は喰いつきそうな顔でまくしたてた。(p.25)

児玉はしばらく沈思黙考、その上でドキッとすることをいった。
「松川部長は乃木君の生首が必要というのだな。乃木君の後には約二万人の旅順で犠牲になった霊魂がつきまとっており、この霊魂にも奉天会戦に参加してもらおうという考え方なんだな」
この出所は島貫重節・・・田中義一中佐からずいぶんのちに聞いた話にもとづいてかいているらしい。のちの「オラが首相」の田中がどこまで正しく語ったものか、いくらか怪しまないわけにはいかない。・・・しかし、これもまた真実であろう。(p.27)

入場行進する将兵が勇士ではなく幽鬼の列の如くに、百閒の胸に焼きつけられたらしい。
「悪戦二百有余日と云う字幕が消えた。鉄砲も持たず背嚢も負わない兵隊が、手頸の先まで袖の垂れた外套をすぽりと着て、通った。(中略)兵隊はみんな魂の抜けたような顔をして、ただ無意味に歩いているらしかった。二百日の間に、あちらこちらの山の陰で死んだ人が、今急に起き上って来て、こうして列んで通るのではないかと思われた」(p.28)

メッケルはこう指摘する。
「日本陸軍のとるべき戦略は、急いで北進する要はなくなったのである」
恐らく合理性にのっとった戦理からみれば、メッケルの言は正しいといえるであろう。それでなくても人的損害はあまりにもひどく、弾丸の不足は目を蔽いたくなるほどなのである。戦力不足の日本軍が急いで北進して、消耗を一層大きくするのは愚策であることは、戦術を少しでも学んだことのあるものならだれにでもわかる。それに気象上からも最悪でありすぎる。零下何十度の極寒である。それなのに、なぜ、参謀本部も満州軍総司令部も「急げ急げ」と第三軍司令部の尻を叩いたのか。攻勢の姿勢を強めているのか。
・・・
いずれにしても、太平洋戦争でしばしばそうであったように、現地軍の参謀たちはつねに攻勢あるのみを主張したがるものなのである。これがチャンスとみると、禿鷹のごとくに貪欲になる。日露戦争時の多くの参謀たちもまたその落とし穴に陥っていたのであろう。ましてや、いままで連戦連勝できているのである。鼻息が荒くなるのは当然というべきか。(p.34)

そしてこのスウェーデンの首都を根城に、対ロシア情報州のためのスパイ工作、ロシア国内の後方攪乱工作に奔走したことはたしかである。しかし、もともとが表立たない裏工作で、秘密であることが必須である以上、どこまでが明石の工作によるものであり、成果であるか分明ならざるところがありすぎる。(p.50)

この戦いは黒溝台の戦いとよばれている。いわば奉天会戦の前哨戦であり、しかも猛吹雪の中でまるまる三日間昼夜の別なく、日露両軍がガップリ四つに組んで力のかぎりをだしての激闘が繰り返された。ただし、日本軍は民家の中、ロシア軍は何も遮蔽物のない吹きっさらしの荒野の上。零下何十度の極寒下の戦いである
・・・
「私たちはできるだけ着物を重ね、防寒外套の襟を立てて、頭巾に頭部と耳を蔽い、靴には絨靴というものをかぶせて凍傷を予防した。一面に降り積もった雪の光に、行く手はほのぼのと見え、夜行軍とはいえ、道に迷う憂いはなかったが、馬上は寒し、下りて歩けば達磨のように着込んでいるため、いたずらに汗のみ出でて身体が思うように動かず、また靴の踵には団子のごとく雪が凍り付いて、滑りやすく、注意をしないと踝の捻挫をしそうになる。」
これではいくら急げ急げと総司令部からガンガン怒鳴られても思うにまかせない。
「飯盒の中には飯がいっぱい詰めてあるけれども、凍って箸をたてることができず、また水筒の水は一塊の氷となって咽喉には通らぬ。空腹の私達は窮余重焼パンを出して、唾で無理に押し込んだが、空の胃腑を充たすほどには、とうてい食べられなかった」(p.57)

それにつけても、拠点を守った秋山旅団の各支隊は、援軍なしで孤軍奮闘、よくぞ守りぬいたとほめるしかない。秋山が各支隊に三挺ずつ分けてもたせていた機関銃がものをいった。遮二無二突っかかる大軍には、うまく配備されたこの兵器はまことに有効で、とにかく鬼神のごとくに戦った。(p.59)

攻撃側のロシア軍は十万五千の将兵が参戦し、死傷一万七百三十二名(うち戦死六百四十一名)、行方不明千百十三名(うち日本軍の捕虜となったもの千名近く)。たいする日本軍は参加将兵五万三千八百、死傷九千八十九名(うち戦死千八百四十八名)。とくに中心となって奮戦した第八師団は戦死者千二百一名。それだけ第八師団が悪戦苦闘したのである。それもこれも満州軍総司令部の楽観と作戦指導の失敗による、そのことを如実に示している。
なお余計なことながら、明治三十五年(1902)一月、八甲田山雪中行軍で指揮下大隊の生還を成功させた福島泰蔵大尉は、この時の戦闘で戦死している。(p.64)

黒木大将の勝利の確信はともかく、奉天会戦の戦機は今や熟しきっていた。日露両軍とも、たがいに斥候をだし、敵の部隊番号、指揮官名、兵種、装備兵器などに関する情報を徹底的にさぐりだしている。間諜も暗躍し、増援部隊の数などもきちんと把握した。(p.105)

その総兵力の詳細はつぎのとおりである。
〈日本軍〉歩兵大隊二百四十五、騎兵中隊五十七、工兵中隊四十三、戦闘兵力約二十五万(後衛はなし)。
〈ロシア軍〉歩兵大隊三百七十九、騎兵中隊百五十一、工兵中隊四十三、戦闘兵力約三十一万(後衛として約十万)。
両軍合わせて第一線約五十六万人の陸上決戦は、それまでの戦史に例を見ない最大規模の戦闘であることは間違いない。
火力(小銃を除く)は、となると、がぜん日本軍のほうに軍配をあげたくなる。
〈日本軍〉野砲五百七十四門、山砲二百五十八門、重砲百十五門。
〈ロシア軍〉野砲千三十九門、山砲百二十門、重砲六十門。
たしかに野砲はロシア軍が二倍近い優勢を誇るが、重砲火力は日本軍が三倍といってもいい。しかもこの重砲のなかには、かの二十八センチ榴弾砲も六門ふくまれる。旅順行為軍の重砲兵部隊を、ともかく勝たなければならないという必要条件のもとで、あらゆる労苦をはねのけて沙河の岸まで日本軍は運んできたのである。
さらに機関銃がある。大本営は、それまでのいくつかの会戦、なかんずく黒溝台の戦いでの秋山騎兵旅団の防禦戦における機関銃の威力の戦訓もあり、万難を排して増産につとめてきた機関銃をすべて戦場に送ってきていた。その数がじつに二百五十六挺に達している。たいしてロシア軍は五十六挺。なんと五倍の優位を占めることができた。(p.111)

戦争開始いらい、日本は国家予算の五三パーセント以上を戦費に充当している。民草はこの莫大な戦費を支払うために、歯を食いしばって税金を払いつづけてきた。そして勝った、なれば講和条件のまず第一は、賠償金の獲得を!なのである。(p.356)

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