花沢中佐と尾形母のいきさつを推測する
作中でわかっていること:
これを踏まえて、いきさつを妄想してみたい。
当時の花柳界について、特に芸妓個人については、あまり資料が見つからない。
・『芸者論』岩下尚久
・『いつでも今がいちばん。』浅草ゆう子
・『日本の下層社会』横山源之助
・軍人御用達といえば赤坂、新橋。ほかに柳橋が一等地。
・浅草は二等地。吉原とは別物。浅草公園が1884年に作られた。
・中佐の年俸1752円。http://www.bunbun.ne.jp/~s_toshiyuki.r104/historyrs.html (明治40年8月22日の佐賀新聞記事)
巡査が月12円という。12円を20万円に換算すると、中佐の年俸は4400万円を超えるが、いまより極端な格差を考えると、
巡査の月給15万円くらいかもしれない。それでも中佐の年俸は2190万円。
・戦地にできた遊郭が1円とか2円というはなしが従軍記のどこかにあった。
我々兵卒には手が出ません、というとおり兵卒の月給なみ。
母のいた置屋がどの程度の格だったかわからないけど、中佐ならそうそう低級なところへは行けまい。というかそうであってほしい。不見転じゃあんまり悲哀だから。
であれば、なりゆき・なし崩しに男女の関係になるのは難しかろう。女将の眼が光っている。
とすれば正式に旦那になっていたのだろうか。たしかに高給取りではあるが、月々の仕送り位はともかく旦那披露の係りをスパッと出せるほどの余裕はどうだろう。そこが気になる。
ま、ともかく旦那になって家を世話して月々の仕送りもしてたとしよう。ここから妄想の度合いが高まるけど、ほどなく尾形母が妊娠、座敷にでるのは難しくなり旦那への依存心が高まる、花沢ちょっとうんざり、そのうち本妻も妊娠がわかり家庭に回帰しちゃう、尾形母は先行き不安や出産・育児ストレスでノイローゼ、ますます足が遠のく悪循環、という感じか。陳腐にいけば。
その始末だけども、茨城から祖父母が出張ってくるのは無理だろう。無筆の可能性も高いし。女将がちゃんとした人で母子を哀れに思って色々手配してくれてるといいんだが。
鶴見中尉・鯉登少尉がサラっと言っているから、尾形の出自は師団内で普通に知られていたのだろう。そこから憶測になってしまうけど認知はされたのだと思う。私生児ではなく庶子。けど花沢の戸籍には入っていない。尾形祖父の戸籍に庶子として父の名とともに記載されていたのではないか。戸籍の裏付けがなければ、本人申告や漏れ伝わった噂だけでは、そこまで公然とはならないと思う。戸籍に記載されていれば徴兵検査の段階で普通に事務方の知るところになるはず。ちょっとザワザワするよね。たぶんすでに花沢師団長だから。
花沢に注進に及んだものがいたかどうか。
時間を出産時に戻すと、認知はするが花沢家には入れない(遺産相続権を与えない)、かわりに手切れ金を多目に出す、以後の世話はしない、くらいで双方手を打ったのではないか。
妾も婚外子もいまより珍しくなかった時代だから、尾形の鬱屈(があるとすれば)はそれが主因ではなく、母がノイローゼから立ち直れなかったことの方が大きい気がする。当時の農村で、別に芸妓だったから婚外子がいるから肩身が狭いってことは、さほどないと思うんだ。元気に働いていれば受け入れられるはず。でもまともに働けない者への風当たりは強かったかと。
しかし精神医療と呼べるものが成立していなかった当時、患者はただ自宅軟禁されるばかりだったから、立ち直るのは難しかっただろう。
- 母は茨城出身の浅草芸者
- 尾形が生まれたころ、父は近衛歩兵第1連隊長、中佐
- 本妻との間に男児が生れるとぱったり通わなくなった
- 祖母はまだ赤ん坊の尾形と母を茨城へ連れ帰ったが
- 鯉登少尉「尾形の父である花沢中将」鶴見中尉「尾形上等兵は・・・花沢中将が妾に生ませた子供」
これを踏まえて、いきさつを妄想してみたい。
当時の花柳界について、特に芸妓個人については、あまり資料が見つからない。
・『芸者論』岩下尚久
・『いつでも今がいちばん。』浅草ゆう子
・『日本の下層社会』横山源之助
・軍人御用達といえば赤坂、新橋。ほかに柳橋が一等地。
・浅草は二等地。吉原とは別物。浅草公園が1884年に作られた。
・中佐の年俸1752円。http://www.bunbun.ne.jp/~s_toshiyuki.r104/historyrs.html (明治40年8月22日の佐賀新聞記事)
巡査が月12円という。12円を20万円に換算すると、中佐の年俸は4400万円を超えるが、いまより極端な格差を考えると、
巡査の月給15万円くらいかもしれない。それでも中佐の年俸は2190万円。
・戦地にできた遊郭が1円とか2円というはなしが従軍記のどこかにあった。
我々兵卒には手が出ません、というとおり兵卒の月給なみ。
母のいた置屋がどの程度の格だったかわからないけど、中佐ならそうそう低級なところへは行けまい。というかそうであってほしい。不見転じゃあんまり悲哀だから。
であれば、なりゆき・なし崩しに男女の関係になるのは難しかろう。女将の眼が光っている。
とすれば正式に旦那になっていたのだろうか。たしかに高給取りではあるが、月々の仕送り位はともかく旦那披露の係りをスパッと出せるほどの余裕はどうだろう。そこが気になる。
ま、ともかく旦那になって家を世話して月々の仕送りもしてたとしよう。ここから妄想の度合いが高まるけど、ほどなく尾形母が妊娠、座敷にでるのは難しくなり旦那への依存心が高まる、花沢ちょっとうんざり、そのうち本妻も妊娠がわかり家庭に回帰しちゃう、尾形母は先行き不安や出産・育児ストレスでノイローゼ、ますます足が遠のく悪循環、という感じか。陳腐にいけば。
その始末だけども、茨城から祖父母が出張ってくるのは無理だろう。無筆の可能性も高いし。女将がちゃんとした人で母子を哀れに思って色々手配してくれてるといいんだが。
鶴見中尉・鯉登少尉がサラっと言っているから、尾形の出自は師団内で普通に知られていたのだろう。そこから憶測になってしまうけど認知はされたのだと思う。私生児ではなく庶子。けど花沢の戸籍には入っていない。尾形祖父の戸籍に庶子として父の名とともに記載されていたのではないか。戸籍の裏付けがなければ、本人申告や漏れ伝わった噂だけでは、そこまで公然とはならないと思う。戸籍に記載されていれば徴兵検査の段階で普通に事務方の知るところになるはず。ちょっとザワザワするよね。たぶんすでに花沢師団長だから。
花沢に注進に及んだものがいたかどうか。
時間を出産時に戻すと、認知はするが花沢家には入れない(遺産相続権を与えない)、かわりに手切れ金を多目に出す、以後の世話はしない、くらいで双方手を打ったのではないか。
妾も婚外子もいまより珍しくなかった時代だから、尾形の鬱屈(があるとすれば)はそれが主因ではなく、母がノイローゼから立ち直れなかったことの方が大きい気がする。当時の農村で、別に芸妓だったから婚外子がいるから肩身が狭いってことは、さほどないと思うんだ。元気に働いていれば受け入れられるはず。でもまともに働けない者への風当たりは強かったかと。
しかし精神医療と呼べるものが成立していなかった当時、患者はただ自宅軟禁されるばかりだったから、立ち直るのは難しかっただろう。
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